秀長が当時の史料にみられるのは天正元年から

秀長は、天文9年(1540)の生まれで、尾張愛知郡中中村のもと上層百姓の妙雲院殿(弥右衛門・筑阿弥)と天瑞院殿(のち大政所)の次男として生まれたと推定され、兄秀吉より3歳年少にあたる。同23年頃に元服したと推定され、その時には兄秀吉は他国に奉公に出ていたため、百姓家を相続したとみられる。

その後、秀吉が尾張織田信長の家臣になったことをうけて、秀長も信長の家臣になり、御馬廻衆に所属したとみられる。苗字は秀吉と同じく木下を称し、信長から偏諱(実名の一字)を与えられて、「木下小一郎長秀」を名乗った。

『秀吉を天下人にした男 羽柴秀長 大大名との外交と領国統治』(著:黒田基樹/講談社)

秀長が当時の史料にみられるのは、天正元年(1573)からで、その時には秀吉の与力として存在した。同3年から、秀吉と同じく羽柴苗字を称し、「羽柴小一郎長秀」を名乗った。

以後は秀吉の与力に専属するようになったとみられる。同5年からの秀吉による中国地方経略においては、秀吉が率いる本軍とは別に編成された軍勢の大将を務め、羽柴家一門衆の筆頭として、秀吉の代行者の役割を果たすようになる。同8年に但馬の攻略を果たすと、但馬四郡を領国として与えられ、竹田城(朝来市)を本拠にした。同10年の本能寺の変後、惟任(明智)光秀領国の丹波を攻略し、戦後に丹波福知山領を領国に加えた。