深刻な闘病生活を送るようになり……

天正15年2月から7月にかけて九州攻めをおこない、先陣の総大将、次いで別編成軍の日向侵攻軍の総大将を務め、島津家を従属させ、以後は同家への「指南」を務めた。戦後には従二位・権大納言に昇進され、同16年3月に、翌月の後陽成天皇の聚楽第行幸に先立って、「清華衆」の家格に列せられている。

しかし同17年11月から深刻な闘病生活を送るようになった。同年12月には伊賀を領国に加えられて、領知高は約83万石におよび、また位階も正二位に昇進され、政権主宰者の秀吉に次ぐ地位を確立されている。

しかし病態は、快復と再発を繰り返し、ついに同19年1月22日、郡山城で死去した。52歳であった。家督と領知は、養嗣子の秀保(姉婿三好常閑の三男、秀次の弟)に継承された。

※本稿は、『秀吉を天下人にした男 羽柴秀長 大大名との外交と領国統治』(講談社)の一部を再編集したものです。

【関連記事】
『豊臣兄弟!』の秀吉・秀長は異父兄弟と言われるも、二人が〈父親について語った記録〉はまったく存在せず…本郷和人が出生のナゾに迫る
なぜ秀長は豊臣政権で大きな役割を果たしたのに長く知名度が低かったのか?本郷和人「恐らく秀次や小早川秀秋と同列に語られてしまったために…」
本郷和人 なぜ「220万石」の秀吉が、関東「250万石」を家康に与えたのか? 会津に大領土を得た蒲生氏郷が落ち込んでいた理由とは? 当時の不動産事情を考える『どうする家康』【2023編集部セレクション】

秀吉を天下人にした男 羽柴秀長 大大名との外交と領国統治』(著:黒田基樹/講談社)

秀吉唯一の実弟にして名代。

秀長は、外様大大名をどのように「指南」し、首都大坂近郊の領国をいかに統治したか。

徹底的に蒐集した史料をもとに、これまでほとんど知られていなかった、その実像に迫る!