大和・紀伊の制圧を進めた
その後、秀吉は織田政権での主導権争いを展開し、天正11年3月に長秀は秀吉から受領名(朝廷の地方官に因む通称)美濃守を与えられ、以後は「羽柴美濃守長秀」を名乗り、同年4月の賤ヶ岳合戦後に播磨三郡・但馬一国を領国(14万石ほどか)とし、播磨姫路城(姫路市)を本拠にした。この時期から安芸毛利家への取次を務めた。同12年の小牧・長久手合戦では、秀吉本軍とは別編成軍の大将を務め、伊勢・美濃・尾張に転戦している。
その間の8月頃に、秀吉から偏諱を与えられて、実名を「秀長」に改名している。戦後は織田信雄への取次を務め、同13年2月に信雄を秀吉に出仕させることに成功している。
天正13年4月に、秀吉の紀伊攻めをうけて、紀伊・和泉約28万石に転封され、紀伊和歌山城(和歌山市)を本拠にし、6月から8月にかけて四国攻めの総大将を務め、土佐長宗我部元親を従属させ、以後はそれへの「指南」を務めた。
同年閏8月に、大和を領国として与えられ、領知高は約73万石になり、大和郡山城(大和郡山市)に本拠を移した。また伊賀筒井定次を与力に付属された。10月に従三位・参議・近衛中将に叙位任官され、公卿の身分になった。また旧織田勢力の遠江徳川家康、九州の豊後大友家・薩摩島津家への取次を務め、その従属をすすめた。
天正14年に大友義統(のち吉統)・徳川家康が秀吉に従属すると、以後はそれへの「指南」を務めた。また同年から同17年にかけて、紀伊熊野地域の制圧をすすめ、紀伊を領国大名の統治下に完全に編成した。大和についても同15年に大和南部を制圧し、同じく領国大名の統治下に完全に編成した。そうして中世前期以来の強大な寺社権門が存在した大和・紀伊の政権への完全な編成を遂げた。