北条家は秀吉への従属を遂げることなく……
北条家への取次は、家康らがあたっていたが、その他のうち富田・津田は、秀長が信雄・家康への取次にあたっていた際に、いわば「小取次」として、同じく取次を務めていた関係にあった。また全宗は、ともに島津家への取次にあたっていた。
そうすると秀長は、北条家に対しても取次にあたっていたことが推定される。直接の取次は、家康・富田・津田・全宗がおこなったが、今回のように京都あるいは大坂での対応は、秀長があたるとされていたと考えられる。
ただし北条家は、その後に秀吉への従属を遂げることなく、天正18年3月から7月にかけておこなわれた小田原合戦の結果、滅亡してしまう。
もっとも従属交渉が決裂し、小田原合戦へといたったのは、秀吉側の取次が十分に機能しなくなったことによっていた。家康は、北条家が引き起こした上野名胡桃城(群馬県みなかみ町)事件の当事者になっていたし、富田・津田らの取次に不十分なところがあったためだ(拙著『小田原合戦と北条氏』)。
