伊達に対しても取次を務めるようになった可能性

次に伊達家については、天正18年の10月12日に、秀長は伊達政宗に返書を出している(『羽柴秀長文書集』303)。伊達が上洛してくるにあたって、連絡されたものであった。秀長は上洛した際に会談しようと述べている。秀長はこのあとまた重態になるが、そのことを予想していないなかでのこととみられる。ここから秀長は、こののちに伊達に対しても取次を務めるようになった可能性がうかがわれるだろう。

ただし秀長自身は、その直後の天正19年1月に病死してしまう。そのため、実際に伊達への取次を務めることはなかった。しかし秀長がまだ生存し続けて、伊達が上洛してきたあとは、秀長がそれへの「指南」を務めた可能性は十分に想定できるように思う。

そうしてみると、秀長の死去が、その後の政権による外様大大名統制の在り方に、きわめて大きな影響を与えるものであったのか、あらためて認識できるだろう。

※本稿は、『秀吉を天下人にした男 羽柴秀長 大大名との外交と領国統治』(講談社)の一部を再編集したものです。

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秀吉を天下人にした男 羽柴秀長 大大名との外交と領国統治』(著:黒田基樹/講談社)

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