もし秀長がそれまでのように健常な状態であったら……

秀吉と北条家との交渉が断絶した時期、秀長は重病に陥っていて、摂津有馬湯で療養していた。

(写真はイメージ。写真提供:Photo AC)

天正17年の12月3日にそこから京都に帰還するが、翌4日に秀吉は北条家討伐の陣触を発していた。

そこからでも交渉継続の余地はあったが、秀長はひきつづいて重態であったから、十分な政治活動はおこなえなかったとみられる。

もし秀長がそれまでのように健常な状態であったら、名胡桃城事件への対処も可能であったかもしれない。そして北条家の秀吉への従属がなって、存続したならば、その後に秀長が「指南」を務めたことは十分に想定できると思われる。