山田耕筰との文通

前ページに「山田は古関のことを文通で知っていた」と書いたが、ここで、山田耕筰と古関裕而の縁について振り返っておきたい。

『エール』の風俗考証を務める、刑部芳則日本大学准教授

昭和3年、古関は、伯父から誘われ、川俣銀行に就職する。銀行は福島から東に約20キロ離れた福島県川俣町にあった。羽二重の産地であり、平日は遠くから糸を織る織機の音が聞こえてきた。銀行の職員は4、5人で、週に一度の生糸の市が立つ日を除けば、のんびりとしていたようだ。

仕事の手がすくと、大きな帳簿の間にはさんだ五線紙を取り出し、北原白秋や三木露風の詩集から好きな詩を選んで作曲をしていた。休日は、伯父の家の向かいにある小高い丘に登って作曲するなど、銀行員生活でも音楽が消えることはなかった。

こうした生活を続けるなか、古関は一大決心をする。彼が尊敬する山田耕筰に手紙を送ったのである。手紙には、今まで作ってきたなかから、詩に曲をつけたもの、曲だけのものなど楽譜数点が同封されていた。

しばらくすると、山田から返信が届いた。手紙には「がんばりなさい」と書かれていた。その後、古関と山田との文通は数回におよび、そのたびに励ましの言葉をもらった。

憧れの師である山田からの言葉はとても嬉しかったようだ。古関は「私は本当に励まされた。やがてこれらの手紙が、私の人生に大きな転換をもたらすことになるのであった」と回顧している。

事実、コロムビア就職の際には、山田の後押しが大きな影響を与えたのである。