早稲田大学の応援歌「紺碧の空」

福島から上京した古関夫妻の音楽環境は恵まれていた。昭和六年四月に妻の金子が帝国音楽学校に入学すると、古関は通学の便を考慮し、阿佐ヶ谷から世田谷代田へと引っ越した。

帝国音楽学校には福島県安達郡本宮町出身の伊藤久男(ひさお)がいた。伊藤は卒業後にコロムビアの専属歌手になる。伊藤の下宿が近所だったため、古関の家にはよく遊びに来た。

伊藤の従兄弟には早稲田大学応援部の幹部であった伊藤戊という学生がおり、古関は伊藤の下宿に行ったときに会った。そこで古関は応援歌の作曲を依頼された。

すでに作詞は早稲田の全学生から募集し、高等師範部の住治男(すみはるお)が書いた「紺碧(こんぺき)の空」に決まっていた。

この詩の選者の一人であった早稲田大学文学部教授・西条八十(さいじょうやそ)は、ビクターから昭和4年に「東京行進曲」、同5年に「唐人お吉の唄(黒船篇)」、同6年に「女給の唄」など、10万枚以上のヒットを連発していた。

西条は「ほとんど訂正するところのない素晴らしい作詞だ。ただ〝覇者、覇者、早稲田〟というところは気にかかる。きっと作曲上難しいだろうから、これは相当の謝礼金をつんで、山田耕筰とか中山晋平といった大家に依頼しなくては駄目だ」と助言した。

古関夫妻の長男・古関正裕さんの著書『君はるか 古関裕而と金子の恋』集英社インターナショナル