
4 不安定な彼女(承前)
「なんでこまっくに話聞きたいんですか?」
青島ビールとウーロン茶で乾杯をして麻辣のスパイスがきいたピーナッツをつまみながら、切り出したのは千景(ちかげ)だった。
大哉(だいや)は、千景の質問に戸惑いをのぞかせながらも話し出した。
「なんと言いますか、昨今、ジェンダーに対する視聴者の視線が厳しくなっていまして、それ自体はもちろん重要で歓迎すべきことなんですが」
「会議じゃないんだから」
駒子(こまこ)は、緊張を解こうと笑いを交えて言ったが、大哉の口調は変わらなかった。
「ここ数年、私が関わったいくつかのドラマに対して、働く女性や母娘の関係に対する解像度が低いというご意見をいただくことがありまして、直接もありますし主にはSNSで……」
ふんふん、と千景は頷き、運ばれて来た皮蛋豆腐や鶏の唐辛子炒めの周りに取り皿を並べる。
「私としてはですね、現代の家族や親子関係の難しさにむしろ力点を置いたドラマととらえていて、そこを評価するお言葉も多くいただいて充実感を持っていたところでのご批判だったので、ちょっとへこんだというか」
大哉のその言葉は本音だろうな、と一杯目を早々に飲み干したグラスに手酌でビールを注ぎつつ、駒子は思った。だから、何度も連絡をしてきたのだろう。
「それで、私に」
駒子が言うと、大哉は視線を駒子に向けた。話し方もだんだん滑らかになってきた。
「原田のお母さんが商店街で仕事してた姿がぱっと思い浮かんで。明るく生き生きとお仕事されてたな、って。それに、お父さんのことも、家事を手伝ってくれる素敵なだんなさんなのよ、うらやましいわー、ってうちの母親たちが話してた記憶が……」
「そうなんだ」
「そうだよ、あの頃だと、サラリーマンの夫に専業主婦の家庭ばっかりだったじゃん? 原田の家は先進的っていうか、お父さんは三十年以上前に育メンだったなんてすごい、と自分が子供を育てるようになった今になって気づいてさ」
「へー」
駒子の声の平坦さに気づかず、大哉は楽しい思い出のように話し続けた。
「小学校卒業してからは商店街にはあんまり行かなかったけど、確か原田のお母さんはお花屋さんだけじゃなくフラワーアレンジメントの教室を始めたんだよね? すごく評判がよくて、同級生のお母さんたちも通ってた」
「えっ、そうなんや?」
驚いた声を上げたのは、駒子の隣の千景だった。
「うん。私が中学二年のときかな。最初は向かいのクリーニング屋さんの二階を借りて、だんだん生徒さんが増えてきたから駅前のビルに移って」
「へえー。商才がありはってんなあ」
鶏の唐辛子炒めは、真っ赤な唐辛子が目立つ見た目から想像したのと違って油の旨味がほどよく感じられる辛さでおいしかった。羊の串焼きと空心菜炒めもテーブルに置かれた。
「駅前のビルに移ってからは、アシスタントの人を入れたりして夕方から夜のレッスンも始めて。花屋はずっと働いてた人に任せたんだけど、仕入れは母がやってたから、ほんとに休みなく働いてたって感じだった」
「お花屋さんて、ふんわり華やかなイメージ持ってる人もおるけど、過酷やんなあ。仕入れって、早朝に市場行くんちゃうん?」
「そうそう。毎日ではないけど、朝、暗いうちから車運転して」
「水仕事やし、冬なんかめちゃくちゃ大変ちゃう?」
「うん。冬は半端なく過酷」
少し思い出すだけでも、駒子は店を手伝ったときの痛いくらいの水の冷たさが今も自分の手によみがえってくるように感じた。
千景は看護師の母親を間近で見て育ち、その仕事の苦労、その家族も含めての大変さをときどき話していたので、別の仕事でも厳しい部分に想像が至るのだと駒子は思った。
「そうかー。考えてみたらそうだね」
千景と駒子のやりとりを聞いていた大哉はそう言ったが、声には実感はこもっていなかった。
「元はご両親がされてたお店を手伝ってたんだよね?」
大哉は、羊の串焼きも鶏の唐辛子炒めもほんの少しずつ、様子を見ながら食べていた。
「手伝ってたっていうか……」
近くのテーブルの若い男女のグループは中国語で店員とやりとりをしていて、駒子はなんとなく羨ましくなった。なにが羨ましいんだろう、と考えて、たぶん会話していることだと思った。言葉が通じるということ。
「母の父が投資に失敗したか騙されたかで借金抱えて、母は高校中退して働かないといけなくなったんだよね」
駒子の言葉のあと、少し間があいた。
言葉を選びつつ、大哉が口を開いた。
「えーっと……、けっこう重い理由で……」
「しかも、母の父はその借金残したまま死んで。詳しくは知らないけど、事故死? だから私には祖父に当たる人だけど、生まれるだいぶ前に死んでるから私は会ったことない」
事故死、のところで言葉がひっかかってしまった。母からも祖母からもそう言われているのだから嘘ではない。しかし、ほんとうは違うであろうことを、駒子はずいぶん前から知っていた。
「母の話では、祖母のために花屋をやることにしたらしいけどね」
「そう、なんだ」
と曖昧に返答しつつ、戸惑う大哉の表情は「聞くつもりだったのはこういう話ではなかったんだけど」と言っているように、駒子には見えた。
「祖母はやさしいと言えばやさしいけど、あんまりしゃべらないおとなしい人だったから、母が十八歳くらいで大黒柱かつ店主になっちゃったみたい」
「ご苦労されたんだね……」
「私も店の二階に住んでた時期は苦労したよ。狭いし寒いし」
「え、あの店の? そうだったっけ?」
大哉の声には素直な驚きが含まれていた。
駒子は、今日はここに来る前から何度も思い浮かべている間口の狭い家屋が並んだ商店街の光景を頭の中で眺めた。花屋の黄色いテントの上、二階の窓は広告の入った看板で半分塞がれていた。そこに人が、しかも駒子が家族で住んでいたとは大哉は思わなかったのだろう。
「大哉んちは広かったよね。夏は庭にプール出したりできて。まだあそこが実家?」
「広いと言えば広かったけど、元々父親の生家で古かったし駅から遠くて不便だから、数年前に売ってN駅に近いマンションに引っ越したんだ。うちからも近いから、ときどき子守に来てもらったりもして、助かってる。ちょっと過干渉気味だから、奥さんは微妙みたいだけど、背に腹は代えられないっていうか」
千景が声をあげた。
「あー、それ、気ぃつけたほうがいいですよ。過干渉じゃなくてもすごくいい人でも、義理の父母とは関係性が難しいから。私、経験者なんで」
「うまくいく秘訣とかありますか?」
「知ってたら離婚せえへんかったかな」
「あ、すみません……」
「謝られたら余計に気まずいじゃないですかー」
と千景が笑うと、大哉もつられて少し笑った。
「あの、でも、実際、試行錯誤中なんですよ。業界的にどうしても遅い時間になりがちだし、ウチの職場環境では男性が育児休暇取取るとか子供のことで早く帰るとか、まだなかなか難しくて。原田にご両親のことを聞こうと思ったのは、実はそういう個人的な理由もあり」
大哉はずっと素直だったな、と行儀よく座る彼の姿を見つめて駒子は思う。小学校のときも、いつも屈託ない感じだったし、陰口を言うことも意地悪をすることもなかった。むしろその素直さに対して、他の男子が嘘を教えたりしてからかうことがよくあった。
「うちの父、勤め帰りに商店街でお惣菜買ったりしてたから目立ってたのかもね」
「買える時間に買ってきたのは時短勤務? うちだと父は毎晩十時は過ぎてて、企業戦士なんて自分で言ってるタイプだったから」
大哉の父親が誰でも知っている企業でいい役職についていると同級生の親たちか商店街の誰かが言っていたような気もするが、駒子は詳細は覚えていなかった。
窓の下の歩道では、ガールズバーに呼び込もうとする人と呼び込まれる人とがあちらにもこちらにも見えた。スーツ姿の男性たちは仕事帰りなのだろうと思うが、スーツでない人も仕事帰りの人は多いだろう。これから仕事に行く人もいるかもしれない。彼らがどんな生活をしていて、どんな家に帰るのか聞いてみたい、と大勢が行き交う場所にいるとき駒子はいつも思う。
「父は、伯父の会社で働いてたし、場所も近かったから早い時間に帰れたんじゃないかな。ほぼ家族経営の小さい会社で、嫌味はずいぶん言われてたみたいだけど」
「ああ、なるほどです」
「日曜だと昼から張り切って凝ったカレー作ってたりしたかな。だから、料理は嫌いじゃなかったと思う」
「お母さんも料理はしてた?」
「してたよ、もちろん。祖母が生きてる間は祖母が作ることも多かったけど、店の二階に住んでた時期は家事の大半は母がやってたんじゃないかな。せっかちで目に付くとなんでもぱっぱっとやっちゃう人だったしね。小学校四、五年からは簡単なものなら私も作ってたし」
「えっ、めちゃくちゃ偉いじゃん」
大哉が素直さを発揮した声をあげ、駒子は少し自慢げな気持ちになる。
「そうだよ」
「じゃあ、お父さんはそれほど育メンというわけでもなかったのかな」
「うーん、その時代の父親としては家事をやってるほうだったとは思うよ。それこそ、偉いとは思う、今考えても。でも、私も近所の人や親戚から、あんなに家事をするお父さんはいない、よくできたお父さんだから感謝しなきゃ、って、散々言われたけど、お母さんもやってたけどな、って気持ちはずっとある。母のほうは、父のおかげで働けてる、父になんでもやってもらってる、って言われがちだったから」
追加の注文をするために、千景のスマホを覗き込む。小さな画面では料理の写真はよく見えず、見慣れない漢字の料理名と短い説明から推測してあれこれ言いつつ決める。
大哉のうしろのテーブルでは駒子と同年代の女性が一人でビールを飲みながら麺を食べていて、近所にこんな店があったらいいなと駒子は思う。職場の近くでもいい。
二杯目のウーロン茶を飲みながら、大哉が話す。
「それは、ドラマ作ってる中でもよく聞くね。制作過程でも、視聴者の感想でも。女性はお惣菜買ったり冷凍食品使ってるだけで母親として足りないって悩んだり責められたりする減点方式なのに、男性はちょっと手伝っただけで褒められる加点方式だ、って。妻が夫を褒めて育てないといけない、みたいなのは、このごろだとなんで子供だけじゃなく夫まで育てないといけないんだと批判されるようになったけど、ちょっと前まで母親向けの冊子にアドバイスとして載ってたし、今でも飲み会で言うおじさんはいるね。飲み会もだいぶ減ったけど」
「女の人でも言う人おるよ」
千景の言葉に、大哉は少し頭を下げた。
「ああ、……そうですね」
大哉にはつい一言言いたくなってしまうんだよな、と千景とのやりとりを見ながら駒子は思う。素直で悪気なんかはどこにもないんだけど、他意がないだけに、それだけじゃないと思ってしまう。
「ドラマに来たご意見て、どんな感じやったんですか?」
「いくつかのドラマで共通することだと、子供に対して虐待、とまではいかなくても、いわゆる毒親って言われるようなキャラクターが、アルコール依存でお金と異性にだらしなくて暴力的なタイプか、夫がエリートで過干渉なタワマンでお受験の専業主婦がほとんどで、ステレオタイプといいますか、どこかにいるモンスターとして他人事に考えてるんじゃないかという……」
「的を射てるね」
駒子が言うと、大哉は少し目を見開いた。
「そう思う?」
「そのドラマについては観てないからわからないけど、ドラマとかのフィクションだけじゃなくて事件の記事なんかでも思うことはある。先入観というか、役割に当てはめて書いてる感じ」
ふんふん、と大哉は頷き、テーブルに置いていたスマホを手に取ってメモを入力し、話を続けた。
「それから、主人公やその周辺の若い女性は今は職業や働いてる姿をしっかり描くようにしてるんだけど、その親世代になると大黒柱の父親に専業主婦の母親の組み合わせになりがちで、母親で働いてるとなると現実離れしたバリキャリウーマンかシングルマザーで苦労してる設定ばっかり、というのもあり……。そのあたりも、楽しく充実したお仕事をしていらした原田のお母さんのことを聞きたいと思った理由で」
「仕事してるお母さんは、昔からいてたと思うけどねえ。それやし、自営業や農業の人もようさんいますやん? 家業や仕事しつつ家事全般の役割を担って大変なお母さんの悩みもあるし、お父さんのほうも家庭の事情やら本人の適性でメインで家事やってる話も人から聞くけど、いろんな人おっておもしろいですよ」
「そうなんです。私もそれは重々理解してますし、たとえば漫画や小説、エッセイなどを元にドラマを作ることも多くて、多様な家族の姿が描かれてるんですが、ドラマってことになると、制作過程で、大多数の人に共感が得られる設定にしないと受け入れられないんじゃないか、なんて言われてしまいまして。多様性を取り入れた作品は増えてきているのに、少し上の世代の人になるとそのあたりの認識がまだまだアップデートされていなくて。会議や交渉の場でしっかり主張していくには自分の経験に裏打ちされた言葉が足りないといいますか、私の能力不足と言われればそれまでなんですが」
大哉が仕事の場で話す様子を、駒子は想像した。今こうして話しているのとあまり変わらないんだろうな、と思う。
「少し前に、配信で多少自由度のあるドラマの部署に移って、ここでしっかりいい作品を作っていきたいと決意を新たにしまして」
「熱心に仕事してるんだね。ここでまで会議しなくていいとは思うけど」
それは駒子の正直な気持ちだった。仕事に対して、大哉は熱意もあり努力もしているのだろう。
「ごめんごめん。……正直言えば、これくらいの年齢になればプロデューサーとしてばしっと決められる立場になってるって、想像してたんだけどね」
ちょっと照れくさそうな表情を浮かべ、大哉はテーブルに並んだ干し豆腐の和え物を、へえ、初めて食べたけどおいしいんだね、などと言いつつ口に運んだ。
「大哉は、手堅い業界というか企業に就職しそうと思ってた。私も勝手なイメージで判断してたかも」
「実は親には反対されたんだよ。テレビ局ならまだしも聞いたこともない制作会社なんて何のために中学から私立に行かせたと思ってるんだ、ってそれこそドラマのセリフみたいなこと言われて。だから、エリートで過干渉なタイプの親はけっこうリアルに造形できてると思うんだけど」
「今のお仕事もいい大学行ってないとなかなか就職できへんとこやと思うけどなあ」
温かい紹興酒を飲んでいた千景が言い、大哉は、それはそうなんですが、と小さな声で言った。
「何のために私立に、って言われて、有名大企業に就職するためだったのかと、そのときやっと思い知らされて。いや、それは、塾でも学校でも当然目指してるのはわかってたけど、父も母も、大哉がやりたいことをやればいい、大哉は夢をかなえてほしい、って言ってたのに、結局はそのやりたいことも夢も、親の考える範囲でってことだったんだなと。というか、親が希望してることをぼくも思うはずだって考えてたんだろうな。その話し合いしてる中で、両親が自分たちとは遠い職業や知り合いの家族を見下してるのもひしひし感じてしまって、ちょっときつかった」
友達と遊んでいる途中で習い事のために一人で帰らなければならなかったり、母親の車で塾に向かったりしていた小学生の大哉の姿を、駒子は思い出した。しかしそれが、今の大哉から想像した子供時代なのか、ほんとうに記憶に残っていた姿なのか、わからなかった。
おいしかったのでもう一皿頼んだ麻辣ピーナッツをひたすら口に運びながら、千景が言った。
「家族とか家の中のことって、ほぼ自分の経験したことしかわからへんから、難しいなあ。仲いい友達で、家に行ったりしてても、ふとしたときに違うところに気づいてびっくりしたりするもんね。ものごころついたときには、これが家族で親なんやって思ってるわけやから、違いに気づいたとしても、その基準からはなかなか自由にはなられへんしなあ」
それは大哉への言葉でもあったし、千景自身への言葉にも駒子への言葉にも聞こえた。
大哉は顔を上げて千景と駒子へ向けて言った。
「でも、感謝はしてます。両親のおかげでそれなりの大学に行けたから就職先を選ぶことができたのは確かですし、勉強して身についたことは自分の糧になっているし。それに、就職してしばらく経つと両親もだんだん認めてくれてというか、関わったドラマがヒットすると『あれはうちの息子が作ったんだ』って知り合いに自慢してくれたりして」
駒子がちらっと千景を見ると、千景と目が合い、なんとなく互いの胸中が似たものであることを受け取った。大哉は、二人の視線には気づいていないようだった。
(つづく)

