保育園児だった頃はその日の出来事をなんでも、それこそ昼食のメニューまで舞子に報告していたのに、櫂人はその事件についてはひとことも伝えてこなかった。彼の中でも恥ずかしさや後ろめたさを感じる出来事だったのだろう。
理由はどうあれ、手を出したことは大問題だ。舞子は櫂人に、「嫌なことをされても暴力をふるってはいけない。口で嫌だと伝え、その子がやめなかったら先生に助けを求めなさい」と言い含めた。櫂人はその間ずっと、納得できない様子で口を尖らせていた。
怪我をさせてしまった件について、龍生くんと親御さんに謝罪したい、と舞子は担任に伝え、さらに櫂人から聞き取った事件の顛末を共有した。この時点で、すでにだいぶ疲弊していた。櫂人がかわいそうだった。同時に、衝動的に他人に手を出した息子に危うさを感じた。舞子ももちろん子供の頃に周囲の生徒と喧嘩をしたことはある。悪口を言われ、嫌な思いをしたことも山ほどある。ただ、腹が立っても、自分から手を出したことはない。
事件について伝えたところ、祐司は「そんなの男の子同士のじゃれ合いの範疇だろう」と楽観的だった。「その子だって悪いんだから、お互い様だ。わざわざ謝ることないよ」そうだろうか? どんな対応をとるのが、もっとも櫂人の今後に善い影響を及ぼすのだろう。
浅い眠りに苦しんだ翌日、再び担任から電話がかかってきた。
「悪口なんて言ってない。いきなり櫂人が押してきた」それが龍生くんの言い分だった。
出典=婦人公論
彩瀬まる
作家
1986年千葉県生まれ。上智大学文学部卒業。2010年「花に眩む」で「女による女のためのR-18文学賞」読者賞を受賞しデビュー。『やがて海へと届く』が映画化、『くちなし』『新しい星』で直木賞候補となる。他の著書に『眠れない夜は体を脱いで』『森があふれる』『みちゆくひと』などがある。
