何ヵ月ぶりかにはしゃぐ息子を見て

話を聞いてくれていた女性カウンセラーが、突然首を大きく横に振った。

「お母さん、あのね。専業主婦だからこそ手を抜かなきゃ。家事、子育てという大事な仕事を、お母さんは24時間365日、休むことなくやっているの。それって、すごいことなのよ。それに、お母さんの代わりができる人はどこにもいないんだからね。もっと自信を持って、自分は毎日すごい仕事をやってるって、堂々としていればいいの。

主婦だって、自分のやりたいことをやったらいいし、自分が行きたいところにも行かなくちゃだめ。空いた時間に、家事以外のこともどんどんやりなさい。部屋に少しくらいホコリが残っていたって、なんの問題もない。それにたまにはラクをして、出来合いのお惣菜を買ってきて並べていいんですよ。ちゃんと温めてお皿に出して、できればお味噌汁だけでも作ってあげれば、それは家族のために用意された立派な夕食ですよ。

毎日きちんとした手料理を出しながらイライラしているお母さんと、たまに手抜きをして、出来合いのお惣菜をニコニコと出してくれるお母さん、息子さんはどちらのほうが好きかしらね?」

目から鱗とは、まさにこういうことを言うのだろう。体中の力が一気に抜け、私自身を締めつけていた窮屈な何かから解き放たれたような、心地よい解放感だった。

「専業主婦だけど、手を抜いてもよかったんですね……」

結婚や母の死で、私は母から完全に自立したつもりだった。しかし私の“完璧な主婦”への執着は、“決して母のようにはならないこと”への執着にほかならなかった。

チンしたコロッケ、水浸しのブロッコリー、レトルト食品、缶詰……。これらのメニュー以上に私が不快だったのは、母が毎日、さも面倒くさいといったしかめっ面で、ため息をつきながらお皿を並べることだった。そして気づけば私も、毎晩疲れ切った顔で、主婦の義務として作った手料理をイライラと家族の前に並べていた。

疲れているなら出来合いのお惣菜を温めて、お皿に並べ、炊きたてのご飯と一緒に笑顔で家族に出してあげればよかったのだ。そのことに気づいたこの日、私はようやく母から本当に自立できたのだと感じた。

カウンセリングの帰り道、私と息子が夕方のスーパーのお惣菜コーナーで、美味しそうなおかずをゆっくり選んだのは言うまでもない。一緒にカートを押しながら、あんなに楽しそうにはしゃぐ息子を見たのは、何ヵ月ぶりだっただろうか。

≪電話口の筆者≫

「子どもには自分の好きなものを好きと言える環境を作ってあげたい」と言う代田さん。それは母によって、洋服も学校も、芸能人の好みすら決められてしまい、自分の人生を生きてこられなかった、という後悔があるから。

ただ、母に「掃除や洗濯、料理をしたら、家族の誰がそれに対してお金を払ってくれるの?」と言わせた原因は父にもある。「なんでこの家に生まれたのだろう」と思い続けてきて結局、父に対する不信感は大人になっても拭えず、妹と相談して母の死後に縁を切ったとか。

「今も母は許せないし、許す必要もないと思う。でも、自分が満たされれば周りも幸せになる。だからこれからは自分が楽しむことを優先していきたい」と話してくれました。