(構成:内山靖子 撮影:本社 奥西義和)
文子の怒りが自分の怒りと重なって
村山 今回の映画を観ている間じゅう、ずっと鳥肌が立っていました。男性からも女性性からも解放された一個の人間として、自分の信念を貫いた文子。その姿にものすごく憧れました。
浜野 そうおっしゃっていただけると嬉しいです。
村山 この映画を撮ろうと思われたきっかけは何だったのですか?
浜野 金子文子の名前は高校時代から知っていたのですが、同じ時代に大杉栄と共に虐殺された伊藤野枝や大逆罪で死刑になった管野スガ(須賀子)に比べれば、地味だしあまり興味が持てなかったんですよ。それが、1998年に復刊された文子の獄中手記『何が私をこうさせたか』を読んだとき、悲惨な境遇で育った文子が、泥の中を這いずり回るようにして自らの思想をつかみ取り、あらゆる差別と闘っていった姿が自分自身の人生と重なったんですね。
村山 監督も、男社会である映画界に切り込んで、数々の作品を撮ってこられました。
浜野 私は高校時代から映画監督になりたくて、卒業後に夢を持って上京したんですね。でも当時(1960年代後半)は、映画監督になるためには大手映画会社の撮影所に就職するしか道がなかった。ところが、その就職条件が「大卒・男子」だったんです。女には映画監督になる道が全く開かれていなかったんですよ。
村山 今よりはるかに強固な男社会だったのですね。
浜野 ええ、普通ならそこで諦めるんでしょうが、私は「民主国家日本で女になれない職業があってたまるか!」って怒りが沸きましたね。ここで私が諦めたら、後に続く女性たちの道も閉ざすことになってしまう。だから、何が何でも映画監督になってやるって決心したんです。
村山 それで、ピンク映画の世界に飛び込まれた。
浜野 はい。アウトローな業界で、そこしか私を受け入れてくれるところが無かったんですよ。とはいえ、女優以外に女性が全くいない撮影現場で、パワハラやセクハラという言葉もなかった時代ですから、地方ロケの時など酔っ払ったスタッフに襲われないよう、包丁を枕の下に隠して寝ていたこともありますよ。そんな現場で、私も泥の中を這いずるようにして監督になった。だからこそ、「女だからと言って、なぜこんな目にあうんだ!?」という文子の絶望と怒りに共感したんです。