母の生き方から学んだこと

村山 監督の自叙伝『女になれない職業 いかにして300本超の映画を監督・制作したか。』を拝読したのですが、今日の浜野監督があるのはお母様の生き方から影響を受けた部分も大きいのでしょうか?

浜野 母は専業主婦で、手に職がなかったんですよ。ところが、父が41歳で突然亡くなってしまって、それからは私と弟を育てるために大変な苦労をしたんです。なので、私には「女だって、自分が食べていけるだけの職を持たなければいけない」と口癖のように言っていましたね。それで私も、自分が仕事を持つことはあたりまえだと考えるようになったんです。

村山 お母様、ご苦労されたのですね。

浜野 並大抵ではなかったと思います。でも、自分が苦労したからこそ、私がピンク映画の助監督をやると言ったときも、「やりたいことがあるなら頑張ってやりなさい」と後押ししてくれた。それで、私も闘うことができたんですよ。

村山 反対はされなかったんですね。

浜野 ええ。母の故郷は徳島なんですけど、当時、徳島の繁華街にピンク映画館があって、私が売れっ子監督になってからは、いつも「浜野佐知監督作品」って大きく書かれたエッチなポスターが貼ってあって。親戚の人たちはその前を通る時は目をつぶって、走り抜けたとか(笑)。多分、母だって、さぞかしいろんなことを言われていたはずなのに、私には何も言いませんでした。

村山 お母様、なんてカッコいい。

浜野 母は私が一般映画を撮る前に65歳で亡くなったので、母に私の映画を観てもらえなかったのが残念です。

村山 うちの母も専業主婦でしたけど、私の場合は母とはずっと折り合いが悪いままで育ってきました。高校時代に、父が若い女性と長らく浮気をしていたので、そのことに対する不満や自分がどれだけプライドを傷つけられたかということを、寝間のあれこれに至るまで毎晩のように母から聞かされて。まだ10代だった私はそれが本当に苦痛で、私は絶対に母のようにはなりたくないという思いが自分の根っこにあったんです。

村山由佳さんの写真
(撮影:本社 奥西義和)

浜野 それはしんどかったでしょう。

村山 で、ある晩、母は家を出ていこうとしたんです。それを「引き留めてくれ」と父から頼まれて追いかけて行ったら、「うちには家を出ていく自由もないのんか」って。その言葉を聞いた瞬間、「こういう場面で、私は家を出ていける女になりたい」と思った。それで、何があっても自分の力で生きているすべを持とうと決めたのでした。