江戸時代中期に、歴史の教科書でも有名な『解体新書』を翻訳執筆した杉田玄白と前野良沢。仲間たちとともに遅々として進まない翻訳作業に明け暮れる二人だが、ある日、玄白は良沢に対して、奇妙な違和感を感じ始める……。小説界を驀進中の著者が描く、驚愕の江戸奇譚開幕!

玄白は怯えていた。
良沢の隣で蕎麦をたぐった日から、良沢が得体の知れぬものに思えてならぬのだ。訳読の間も、襖にちょっと隙間をつくっておかねば手帖を上手く捲れぬようになり、外出(そとで)の際は、蕎麦の屋台が目に入れば取って返して、違う道を選ぶ。そうやってひどく怯えていながら、その怯えている相手の家に忍び込めるというのだから、己はやっぱりおかしな人間であるのかもしれぬ。
真昼間、良沢が自宅を出たのを天水桶の影からうかがい、その格子戸を幾度か叩いた。女中が出てきた際のにっこり顔の用意は万全。前野先生のお忘れ物を代わりに取りに参りましてな、ってな家入りの言い訳の用意も万全であったというのに、女中は一向に出てこない。しばらく経ってから格子戸に手をかけてみればすんなり空いて、立てかけられているだけの心張り棒がからんと地面に倒れ込むのにびびり上がった。
蕎麦の啜り方を知らぬうえに、女中もおらず、おまけに心張り棒の使い方まで知らないというのは、ますます良沢のその正体に靄(もや)がかかるというもので。だが、玄白はぶんぶん頭を横に振ってから、良沢の家の敷木を跨いだ。
大して家探しせぬうちに見つけられたのは、以前にも見た光景であったからであろう。隠したいものを本と本の間に挟むその性(さが)は、どうやら人間と同じであるらしい。良沢の部屋の中、箪笥近くに積まれた本と本の間に挟まれていた薄紙を引っ張り出してみれば、そこに書かれていたのは和語でも和蘭語でもない。細かく千切られた蚯蚓(みみず)がてんてん落とされたような模様であった。が、蚯蚓の長さと並びにに一定の定まり事があることは、四年もの間、和蘭語の訳読を進めてきた己には分かって至極当然。
言語だ、と玄白は震える指で薄紙を差し込み戻しながら、思った。
この紙に書かれているこれは言語であるのだ。
すると、今日まで頭に残っていた引っ掛かりが次々と数珠繋ぎになっていく。
平生、滅多に顔色を変えぬ男が、ウエインブラーフとの言葉の響きにあれほど顔を赤らめていたのは、この千切り蚯蚓の言語では卑猥(ひわい)な意味を持つからではなかろうか。
そりゃ江戸雀には馴染みの地口、恐れ入り谷の鬼子母神との言葉遊びだってぴんとは来ない。あの日、眉間に皺を拵えながらご機嫌の悪くなった良沢がすとんと腑に落ちる。
ならば、良沢は一体誰だ、あの男の正体は。
良沢の家から転がり出て、通りがかった駕籠に慌てて乗り込む。出来るだけここから離れるように声をかけ、揺れる駕籠にひいふう呼吸を合わせてから、
ようし、落ち着け玄白、と己の名を心の中で呼びかける。
『ターヘル・アナトミア』を解読するときと同じ要領である。蓄えてきた手がかりを頭の内に存分広げそれらを重ね合わてみりゃあ、自ずと答えは導き出される。玄白は駕籠の中で腕を組み、良沢らと交わした言葉を思い出す。
噂ではございますが、と話の種にあげたのは淳庵だったか。
本木良永との通詞も和蘭語の天文を訳し始めているだとか。
そんな風に玄白と淳庵で会話を進め、天文の訳読をしている者に声をかけようとすると良沢は怒った。あのとき己一人で十分だと良沢がいきりたったことに、己はきちんと答えを当てがうことができていなかったが、もしやあれが良沢の正体に関わるものであったなら。たとえば、天文に詳しい者を玄白らに近づけたくなかったとしたら。
頭を回し続けているせいか、駕籠の中が息苦しい。それでも、頭は止まりやしない。
そもそも玄白と関わりのない人間が、ああも腑分けを見たい理由はなんであったのか。
こめかみをぐうと押し込み、ちょいと待て。
淳庵が玄白と同じように己のこめかみをぐうと押し込んでいるその横で、良沢は、脇腹を親指でぐっぐっと押し込んでいた。屋台の床机に尻を置き、そわそわ動いていた膝はまるで匂いを嗅いでいるよう。和蘭語の響きに顔を赤らめ、発した言葉が、一度腹を冷やしてまいります?
人骨を拾って額を打ちつけ笑い合った後、良沢がしみじみ口にした言葉が、玄白の耳の中でうわんと鳴っている。
人間とはすごいものでございますなあ。

元禄十二年六月五日のこと。熱田海に舟が一艘流れ着いたが、それを目にした野次馬らは皆揃って首を捻ったそうである。こいつは本当に一艘と数えてよいものか。一つか一個か、それとも一椀。なにせ、舟と呼ぶにはあまりに奇妙な形をしているのだ。
椀を二つ上下逆さまに向かい合わせたそれは、果たして舟であるのか。くわえて、びいどろの窓が張られているのもはじめて見る仕様で眉間に皺が寄るが、その窓の向こうで行ったり来たりする女子があまりに美しいとあって、皺は伸びたり寄ったり忙しない。しかし、舟の壁に取り付けられているものが目に入れば途端に皺は寄る一方。そこにあるのは、大釘で貫かれている坊主の首である。やはりこいつを舟と呼んでよいものか。
考えた末につけられた名前が、空穂船(うつぼぶね)。
次の日には消えていたこの舟を、人々は外つ国から彷徨いきただの、他界に繋がる波間からやってきただの、地獄の底から浮かんできただの語った。
だが、中にはこの舟は、天から降りてきたのだと唱えるお人もいたという。
良沢の家へ忍び込んだ次の日、玄白は『ターヘル・アナトミア』の訳読を休んだ。
その旨をしたためた手紙を女中に持たせ淳庵と良沢へと遣いをやれば、二人からそれぞれ返事があった。ので、玄白は淳庵の手紙を開き、良沢の手紙を庭で燃やした。空穂人(うつぼじん)が書いたものなど得体が知れず、手で触れられるわけがない。しかし、と玄白は煙がきちんと上へ昇っていくのを確かめながら、唸り声を上げる。『ターヘル・アナトミア』の訳読は続けねばならぬ。どうにか淳庵に事情を話して、二人だけで続けてゆけぬものだろうか。だが、それがあの空穂人にばれたならば、己は一体どんな目に遭わされるのか。考えただけで、胸が早鐘を打ち始める。玄白は手のひらを胸に押し付けてみた。すると心の臓は力強く脈打っていて、こうして体中の管を通して、玄白の脳みその働きを早めてくれるというのだから、人間ってのはすごいものである。
思った瞬間、またしても耳にうわん、だ。
人間とはすごいものでございますなあ。
良沢の正体に気づいた日から、玄白はその言葉が事あるごとに思い出されてならない。
無論、最初は恐怖であった。良沢は人間との言葉を、玄白らにとっての犬やら猫やらと同じようにして舌に載せていたに違いない。そう思っていたけれど、あの空穂人はそれから、ふう、と深く息を吐き、
あるべきところにあるべき大きさ、あるべき重さの腑が詰まっている。縦にも横にも一寸たりとも動かしてはならない。そんな中身でございました。
玄白に告げた良沢の目の内の輝きは、まるで冬の夜空の星の如くでひどく美しく――。
「旦那様」との声に、体を跳ね上げる。
見れば部屋の入り口に女中が立っていて、こちらをうかがっている。なぜだか嫌な予感がした。首だけで話を促すと、女中は口を開いて「前野先生がお見えです」
ひいっと喉を悲鳴が駆け上がる。が、それが口から飛び出す前に玄白はすでに立ち上がっていた。女中を押し退け、着のみ着のままの格好で家の裏口に向かって廊下を走る。
逃げよ、と己の体が言っている。逃げよ、逃げよと足が叫ぶままに裏口を潜った。
これだけ走ろうとも空穂人は追いついてくるやもしれぬ。だって悩む際に脇腹を押して、膝で匂いを嗅ぐのだ。体のつくりがそもそも違っているわけで、口から細い腕を伸ばすようにして、足だってもう一本生やすことだってできるはずだ、そうなのだ。そうやって後ろを気にしていたせいだろう、裏手口の戸を開けた玄白は、その目の前の通りで振売が客に菜を売り渡しているのに気付けなかった。
振売と目が合った。途端、振売の目が見開かれて玄白はぎょっとする。玄白の家の前に塩を撒くのは、この振売の仕業であることを玄白は知っている。菜を近所のお人らに売るたびに、玄白のあらぬ噂を流しているのを知っている。そうまで阿蘭陀嫌いであれば、いきなり阿蘭陀に通じた悪人が現れりゃあ、驚きもしよう。だが、その嫌いのほどが、片手に握っている菜売り用の桶を振りかざされるほどだとは、思いもしなかった。
振売は顔を赤めて叫ぶ。
「化け物め!」
玄白は目を瞑る間もない。だからこそ、目前に横から飛び込むように現れた人影の正体を、捉えることができた。良沢であった。どうやら表口から回ってきたらしい良沢の額にがつりと桶がぶつかる。桶から外れたたがが跳ね返り、良沢の額の肉を抉(えぐ)ったのを目にした瞬間、
見られちゃあいけねえ!
声が出るよりも先に、体が動いていた。気付けば玄白は、懐から取り出した手拭いを良沢の額に押し付けていた。驚く良沢に呼応するかのごとく、布越しに肌がぐぬりぐぬりと動いている。しかし、なぜだか玄白は、手を離そうとは思えなかった。逃げ出す振売の背中を目で追って、ほうと息を吐き出す余裕があった。
玄白が押さえていた手拭いを良沢に預け、二人してだんまりで玄白の部屋に戻る。
「先ほどは庇ってくだすって感謝申し上げる」
玄白はまずは素直に礼を口にした。
「ですが、どうして庇ってくださったのです」
対面して座している良沢に向かってまっすぐ伝えれば、
「私は人よりも頑丈ですので」と良沢は口の中で泡を潰すようにぷつぷつ言ってから「いや」とゆっくり首を振る。
「私は人間よりも頑丈ですので」
言い直し、瞬く良沢の目蓋は蜥蜴の如く下から上がる。
「前野先生のそれがばれては、大変お困りになったはずですのに」
「……それとは」
ここまできてすっとぼけるなら、最初から己なぞを庇わなければいいのだ。
「その手拭いの色でございます」
玄白はわかりやすく良沢の膝のあたりへ目をやる。畳の上に置かれている手拭いは、濃浅葱よりも深みのある青に染まっていた。その染みの一部が玉虫のようにぎらついているのは、血が多く拭われたところだからであろうか。
玄白の目から隠すようにして良沢は手拭いを引き寄せると、
「それなら私もおうかがいしたく存じます」と問いかける。
「玄白殿。あなたはどうして私の血を隠してくださったのです」
あなたは私の正体に気づいておられるでしょうのに。
良沢に見つめられ、玄白も見つめ返した。ちょっと目玉を上に動かし、すでに傷の跡も残っていないつるりとした良沢の額をきちんと目に入れているのを見せつけてから、
「ようございました」と柔く微笑む。
少しだんまりがあってから「私は」と出された口の前に、玄白は「いえ」と手のひらを差し出す。
「あなたは告げぬまま、私は聞かぬままで参りましょう。聞いてしまっては、私は手帖に残さずにはおられませんから」
膜の張った良沢の目が一重、二重と見開かれる。ちろりと手のひらに感じたのは、蕎麦を食った際に口から伸ばしていたあの細い腕かしら。へえ、その指先は舌と同じようにぬめりがあるのか、とどこか冷静な己が少し笑ける。
「玄白殿は、私が何者かを確かめなくてよいと言うのですか」
「あなたが何者かなぞ私はとうに知っております。前野先生は私と志を同じくする者でございます」
玄白ははっきりと言い渡す。
「ともに『ターヘル・アナトミア』を訳読し、セイニーに繋がれている同志」
それだけでよいではございませんか。
言いながら、玄白は腑分けで目にした腹の中を思い浮かべてみる。紅毛人と日本人の腑の位置、腑の色、腑の大きさはほとんど変わらなかった。だが、良沢と己の体は違うのであろう。人間のこめかみは良沢の脇腹にあり、人間の鼻は膝にある。ならば、その体の中身も位置も色も大きさも、すべてあべこべであるはずだ。
蕎麦の食感を感じる場所が違っていて、だけれど、それを美味しいと思った心持ちは多分一緒であったから。
「明日からもよろしくお願いいたします」
玄白は深く首を垂れる。
帰りに寄った屋台で一緒に蕎麦を啜ったけれども、やっぱりちょっと下手くそでいらっしゃった。

一年後、『ターヘル・アナトミア』の訳読書は『解体新書』と名が付けられて刊行がなされた。訳者の並びは「若狭杉田玄白翼譯、日本同藩中川淳庵鱗校、東都石川玄常世通參、官醫東都桂川甫周世民閲」として、己と淳庵、その他訳読に手を貸してくれた者らの名前を載せた。玄白は、良沢の名前を載せぬことに決めた。
「助かります」と良沢は膝の上に載せた『解体新書』を撫でながら言う。
「そりゃあ、私はあなたの同志でありますから」
前野良沢の名前はあまり広がらぬ方がよいだろう。そう思っての決断であった。
玄白の部屋の中、前に座している良沢は手では飽き足らず、肘やら尻やらを擦り付けて『解体新書』を堪能し、ご機嫌である。二人きりだと時折、良沢の裾の間からもう一本足が伸びていたりするから、随分と心を許されたものだと思う。
玄白がゆるりと口の端を緩めていると、良沢は書物に顎を擦り付けるのをやめて、こちらに向き直った。
「玄白殿には知っておいていただこうと思う」
言って良沢は畳の上に両手をついて、つと揃えた。指は二十本もあると、扇のように広がって面白い。
「私は★▽※→‡♪÷からここへきた、★▽※→‡♪÷人に御座います」
「ほう」と玄白の口から漏れたため息は感嘆が多分に含まれている。難しい難しいと頭を悩ませてきた和蘭語は、どうやら日本人の口にも耳にも合っていたらしい。
「私と初めて会ったときからあなたはそのレクシュル」
口を押さえながら、ほらと笑う。ほら、この空穂人が使う言語を玄白は再び言葉にすることができない。
「……すみません、そのなんとやら人であったのですか」
「いえ、そのときは本物の良沢殿でございます。お上からあなたに腑分けを許可する手紙が出されたのを知って、私は良沢殿と入れ替わった」
ならば、桜が降る中駆けつけた良沢は、この空穂人の良沢であったというわけだ。
「……本物の良沢殿は何処に」
玄白の声がわずかに強張ったのに気づいてか、良沢はにこりと微笑む。これをにこりと形容して、よいものなのかはわからない。笑顔の良沢の口の中では、百足のような歯が無数に伸び縮みしながら蠢いている。
「あなたが次に会う良沢殿は本物でいらっしゃることでありましょう」
だが、玄白はその歯がちっとも恐ろしくなかった。それどころか、素直にひどく残念に思う。
「あなたは己の故郷へお帰りになるのですね」
「ええ」
「私はあなたがまた蕎麦を食べるところを見たかったのですけれど」
玄白の言葉に、良沢はまたしても微笑んだ。百足の歯を蠢かせず、口の端をゆっくりと持ち上げる。
「私だって名残惜しい。ですが、あの日食べた蕎麦の美味しさを私は生涯忘れやしません」
玄白は良沢の方へと膝を滑らせる。
「蕎麦だけ覚えて帰られては困ります。人間の中身はいかがでしたか。空穂人として満足がゆくものでございましたか」
「人間の中身?」
良沢の首がかくりと折れる。それはまるで骨が折れたの如くで、この人間の仕草についてはまだ会得できていなかったようである。
「まあ、勉強にはなりましたがね。私が知りたかったのは人間の中身ではありません」
良沢は首を戻して、口の両端を同じ分だけ吊り上げる。
「あなたですよ」と言う。
「は」と玄白の喉からは素っ頓狂な声が出た。思わず手にしていた『解体新書』を取り落とす。しかし、良沢は気にも止めず、言葉を重ねる。
「私は、いえ、我々は、あなたが目的でありました」
良沢は玄白の手を取り握り込む。空穂人は玄白の手の指の股を擦り、手の甲を押したり離したりする。
「◎☆#§@♪↓∞は、杉田(すぎた)玄白を知りたくてここにいたのです」
今のはなんだ。何を意味しているのか、玄白にはまったくわからない。尻が勝手に後ずさる。早く家に帰らねばと思った。
「面白いものですねえ」
口元に手を当てて、きゅうきゅうと良沢は笑う。
「知的好奇心というものは人間に同胞の中身をも暴かせる。ここまでは推測をしておりましたが、まさか我々のような空穂人とも手を組ませることになろうとは」
口から出した腕のような舌がぺろりと唇を這う。
「人間とはすごいものでございますなあ」
早く家に帰って、箪笥を確かめねば。
抽斗(ひきだし)の奥の奥、畳紙(たとうし)で幾重にも包んで仕舞い込んでいる、青に染まった手拭いを奪われていやしないか。
空穂人らの目的が己であるなら、玄白が必死に隠しておいたあの良沢の血に染まった手拭いの所在もばれているやもしれぬのだ。
良沢が故郷に帰ったとてあれが手元に残ってさえいれば、空穂人を調べることができるとそう思っていたのに、奪われてしまうのなら話が違う。
腑分けしておけばよかった。
玄白が強く噛み締めた奥歯はちょいとぐらつき、まるで百足が身を捩ったようであった。                  〈おわり〉

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