実際に改宗したと伝わる名刹のご住職からこのお話をうかがったときは、言葉にできないほどの感動を覚えました。これぞまさしく、「心あるもの 住みとどまらんに なべてみな 楽土なり」ではありませんか。
親鸞さまには、その場を明るく温かく、居合わせた人々の心を安らかにする力がおありだったのでしょう。たとえ流罪人の身であっても、親鸞さまの行くところは楽土になり、浄土に変わっていったのですから。
もし、行く先々でうまくいかないとしたら、その原因は向こう側にはありません。身の上を嘆く前に、自分自身の心の持ち方や生き方を見直したいものです。
私を教え導いてくださった澤木興道老師は、「仏法とは、こちらの目、耳、見方、頭をつくり変えるということじゃ」とおっしゃいました。確かに、果樹園のりんごも、その豊かな実りに見惚れる人ばかりではありません。
近隣の農家にとっては、収入の多寡を競う商品であり、泥棒にとっては濡れ手で粟の盗品でしょう。りんごに違いがあるのでなく、こちら側の見方が違うのです。
自分を変えれば、世界も変わります。相手に変わることを求めるのでなく、ひたすらに自分がどこまで変われるかを我に問うていく。すると見えていなかった自身の非に気づくことができ、軌道修正も可能になる。
地獄、極楽は向こう側にあるのではありません。私の心一つ、生き方一つ、自らの手で展開していくものなのです。