江戸時代から続く厳しい芸の道
そんなやり取りを続けて1年半。07年の暮れも近いある日、いきなり父に「出かけるぞ、着物に着替えろ」と言われました。向かった先は講談協会の会長である六代目一龍斎貞水先生のお宅。そこで父が「娘を入門させてやってもいいでしょうか?」と両手をついてお願いし、ようやく父に弟子入りすることができたのです。
それまで一人も弟子を取らず、私にもさんざん「ダメだ」と言いながら、なぜ入門を許してくれたのか。その理由を最後まで明かさずに78歳で亡くなったので、いまだに父の真意はわかりません。
何はともあれ、この日を境に父と私の関係は「師匠」と「弟子」になったのです。けじめをつけるために実家を離れ、私は一人暮らしを始めました。
講談師の修業は、「修羅場」と呼ばれる合戦の場面を読むお稽古から。ひとくちに講談と言っても、義士伝、怪談、世話物などさまざまな分野の「読み物」があります。なかでも軍談・修羅場は序破急が聴かせどころ。修羅場は講談師ならではの、客席の後ろまで届く太い声を作るにはうってつけ。講談は「修羅場に始まり、修羅場に終わる」と言われるのです。
一龍斎のほかに神田や宝井、田辺といった流派がいくつもあり、どの修羅場を学んでいくかは一門によって異なります。ちなみに、私が父から与えられたのは『山崎軍記』でした。本能寺の変を受け、羽柴秀吉と明智光秀が激突した合戦を語るものです。
前座を務めてまだ1年目のときは、これだけを必死に読んでいました。ほかの前座の先輩方は軽やかな滑稽話でお客様を笑わせているなかで、私だけが毎回重く低く太い声で『山崎軍記』を申し上げる。さすがにこのままでいいのかと不安になりましたけど、父は「この先、何十年と講談師として生きていくには何よりも声が大切」と、徹底していました。