素手で便器磨き

集合は元請け会社のロビー。その後、会議室で業務の説明を受けた。一緒に現場をまわってくれるのは30代の役員、スギモトさん(仮名・以下同)。創業時からいて、今は取締役の1人だ。彼も若いころは社長のやんちゃ仲間だったらしいが、今はそんな様子はまったく感じられない。

「社長の友だちだから責任ある仕事を任されていると思われたくないんです。縁のあったこの会社、この仕事で、自力で成果を上げたいと思って働いています」

『60歳からのハローワーク』(著:神舘和典/飛鳥新社)

スギモトさんは言う。仕事をするモチベーションなのだろう。

出発前には社内の清掃を行った。担当は社屋の3階の男性トイレ。なかに入ると、掃除する必要を感じないくらいピカピカだった。常に清潔を心がけているのだろう。

「これを使ってください」

と、スギモトさんからしぼった雑巾を渡された。

目の前で彼は手袋もせずに便器を雑巾でゴシゴシ拭き始めた。素手で行うのが会社の方針らしい。気合いを感じた。役員が率先して素手で便器を掃除したら、社員もやらないわけにはいかない。こういう行いは会社にいい緊張感をもたらす。

トイレ掃除に重きを置く経営者は少なくない。パナソニックホールディングスの創業者で“経営の神様”と言われる松下幸之助氏は自社工場のトイレが汚れていたことに憤り、自らの手で掃除をしたエピソードが残っている。2025年1月に他界したカー用品メーカー、イエローハット創業者の鍵山秀三郎氏は毎日素手で便器を磨き上げていたという。「凡事徹底」の精神を持つ経営者が多いせいか、自己啓発セミナーの多くがトイレ掃除の大切さを説いている。

手袋をせずに便器を磨くことに抵抗を覚えなかったわけではない。なにしろ、見ず知らずの人たちがオシッコをした便器だ。しかし“郷に入れば郷に従え”という。ヴェンダースの映画『PERFECT DAYS』で便器をゴシゴシ磨く役所広司の姿に禅の精神を感じてもいた。受け取った雑巾で、男性用の小用便器をキュッキュと磨いていった。