「ちょっと、お春さん、それは違いますよ。あたしは、いつだってみんなに……お春さんや末音や、そう、甲三郎さんに助けられて、ようやっとここまで来られたんじゃないですか。そこのところを履き違えるほど、馬鹿じゃありませんよ」
お春が首を横に振る。
「そんなことを言ってるんじゃないんです。おゑんさんに何もかもをさらけ出してほしいとも、言ってるつもりはありません。上手く言えませんが……えっと、あたし、お小夜さんの気持ちが少しわかる気がします。見当違いかもしれませんが、わかる気がするんです。お小夜さん、とても怖いんじゃないでしょうか」
「怖い? あたしがかい」
「おゑんさんがいなくなることが、です。一生逢えなくなることが、ですよ」
お春は、このところ肉がついて丸くなった顎を上げた。出逢ったころ、痩せて窶(やつ)れて、全てを諦めきっていた娘は、いつの間にか少し肥えて、よく笑い、逞しく、瑞々(みずみず)しい肌を持つ女に変わった。
「それは、あたしが死ぬことを恐れていると?」
お春は真顔のまま頷きもしなかったし、かぶりも振らなかった。
あたし、怖かったんです。どうしてだか、とても、とても怖くてたまらなくて……。
お小夜の震え声がよみがえる。
そう、確かにお小夜は怯えていた。その怯えに抗えず文を書いた。
「あの、おゑんさん、用心した方がよかないですか」
お春の声が僅かに重く、沈んでいく。
「何も明らかになっていないのに心配するのもどうかと思いますが、おゑんさんのことを探っている者がいるってのは確かでしょう。しかも、吉原で。用心するに越したことはありませんよ。少なくとも、暫くは吉原に近づかないのが得策でしょう」
「明らかになっていないから、心配するのですがの」
末音が珍しく、横合いから口を入れる。
「相手の貌(かお)が見えるのなら、何とかしようもありますが……まるで見えないとなると、厄介この上ないですのう。こちらとしては何もできませんで。大層、分が悪うございますよ、おゑんさま。お春さんやお小夜さんの心配、ごもっともです。けど……おゑんさまなら、それくらいは、わかっておられましょう。そして、どう手を打つべきかお考えでしょうの。お春さんは、そのお考えを話せと命じておるのですが」
「あら、違いますよ」
お春が腰を浮かす。
「あたし、命じてなんかいません。そんな偉そうな真似、できるものですか。ただ……今回は、おゑんさんの考えていることを教えてほしいと……えっと、ですから、何というか、その……万が一、おゑんさんを狙っている誰かがいるとしたら、一日も早く、いえ、一刻でも早く見つけ出さなくちゃいけないでしょ。それなら、知ってることとかわかっていることとか考えていることを、できるだけ互いに知っていたり、わかっていたりした方がいいかなと思ったわけです。あの、備えあれば患(うれ)えなしとか言うし……あ、でも、これはちょっと違うかしら。すみません。自分でも何を言ってるのかこんがらがってしまいました」
お春は頬を染め、身を縮めた。
「いや、その通りでございますの。おゑんさま、これはおゑんさまの命に関わることになるかもしれませぬで。隠し事はなしにいたしましょう。ですから、今、おゑんさまのお頭(つむ)の中にあるものをお話しいただきましょうかの。ね、お春さん」
これも珍しく、末音がよくしゃべる。お春は、その通りだと言うように、二度、深く首肯した。
「まったく、二人とも酷いねえ」
鬢の毛を掻き上げ、おゑんはわざと長い息を吐いた。
「吉原では、もしかしたら、懸想されたのじゃないかって言われたけどねえ」
「懸想?」
末音とお春の声が重なった。
「懸想って、どういう意味です?」
お春が首を傾げる。末音も同じ仕草をしていた。
「どういう意味って、そのまんまじゃないか。あたしに懸想した男がいて、陰でこそこそあたしのことを調べて回っているって、さ」
「そんなこと、誰が言うたのですかの」
「……そりゃあ、お小夜さんのところの禿だけど……」
「ああ、ませた子どもらしい言い方ですね。でも、まさかね」
お春は、そこで僅かに歯を覗かせて笑んだ。
「はい、まさかですの。おゑんさまに懸想するほど度胸のある男が、そうそういるとは思えませんでの」
末音はにこりともしない。真顔のまま、湯呑を口に運んだ。
「まっ、ほんとに腹が立つね。よくもそこまで、言ってくれること。あたしにだって、その気になれば男の一人や二人、いや五人も六人も寄ってくるんだよ」
「寄ってきたら困るでしょう」
お春が口元に笑みを残したまま、こともなげに言った。
「邪魔なだけじゃないですか。おゑんさん、自分で思ってもいないことを言わないでくださいな。それより、本当のところを教えてください」
おゑんは軽く肩を竦めた。
本当に、したたかで芯があり、強い。目の前の女はそういう者になった。
「末音」
「はい」
「例の薬のことなんだけどね」
末音が湯呑を傍らに置いた。暫くおゑんを見詰める。
「越冬虫(えっとうちゅう)のことですの」
おゑんが頷くと、末音は目を伏せ吐息を零した。
「あれは難儀ですのう。せっかくおゑんさまが入手してくださったのに、まだ謎が多く、なかなかに解き明かせませぬ。ええ、ほんに難儀をしておりますよ」
「ああ、そうだね。どうにも厄介な相手だよ」
吉原でのさる事件に関わり、おゑんはこれまで目にしたことも、聞いたこともない不思議な薬を手に入れた。服した者を深い眠りに誘い、そのまま死までも引き寄せる。
吉原で遊女と心中した大名の持ち物だった。その大名の領地でしか発生しない越冬虫という虫から生えた茸(きのこ)というか茸の生えた虫というか、それを素にして調薬する。そこまではわかった。薬そのものも、多くはないが手許にある。
眠りこけ、目が覚めたときには治療が終わっている。それが叶えば、外科の医事は格段に進む。文化元年、紀州の医師華岡青洲(はなおかせいしゅう)によって生み出された“通仙散(つうせんさん)”は、まさに痛みから患者を救うための神薬とも言えた。ただ、通仙散も万能ではなく、使用による弊害は少なくない。ならば、この越冬虫を素とした薬ならどうだろうか。
越冬虫の薬は毒薬でもある。服した者をたちまちの間に衰えさせ、恐るべき速さで老いを進め、死に至らせる。越冬虫の餌食となった者たちをおゑんは目の当たりにした。
すさまじい威力だ、確かに。しかし、それはまた、すさまじい効能を持つことでもある。毒である、その一カ所を取り除けさえすれば、まさに万能の薬ができあがる。さらに、本道にも有用なのではと、おゑんは考えている。老いを進める害を、病を押し止める力に転じられないかと。例えば、塗り薬として、肌にできた執拗な腫物を枯らすことはできないか。病巣だけを衰えさせることはできないか。そんなことを考えたのだ。
自分が生のあるうちに届かなくとも、次の誰かに手渡すことができれば、その者がさらに進めてくれれば、さらに次の者が……。いつか叶う夢ならば、その夢の礎を築きたい。石垣に、石一つであっても積み重ねたい。
「曼陀羅華(まんだらげ)、草烏頭(くさうず)、当帰(とうき)……そのあたりは、通仙散と同じでしょうの。ただ、越冬虫を除いても、あと二つ、三つ、正体のわからぬものがありましょう」
「ああ、そうだね。そこが肝要さ。越冬虫と混ざることで、それらが毒となり人を蝕むのか、逆にそれらを除くと、さらに毒の性質が強くなるのか、変わってしまうのか……まだ、わからないことだらけだねえ」
「まったくでございますよ。人を使うて試せれば一番よろしいのでしょうが、まさか、そういうわけにはいきませんからのう」
「末音、空恐ろしいことをさらりと口にするんじゃないよ」
「口にするのと実際にそうするのとでは、天と地ほどの違いがございますよ。けど、おゑんさま、ここで急に越冬虫を出されたのは何故ですかの。この度の件と何か繋がりがあると?」
「わからないねえ。けれど、気になるんだよ。あたしと吉原が結び付き、何が残るかと考えたときに、越冬虫のことが頭に浮かんだのさ。あたしをどうこうじゃなくて、これほど不思議で得体が知れなくて、だからこそ神薬ともなりうるもの。それを喉から手が出るほど望んでいる者がいるんじゃないかとね」
むろん、これも推測に過ぎない。推測より他にできることなど、今はない。
(この章、続く)












