「推しねえ……そういう見方もあるんだね。じゃあ、ちょっと頑張ってみようかな」
 わざと軽く言ってみた。すると、はっきりと麻子は安堵の表情を浮かべた。
「それがいいよ。応援してるから」
 そう言って、麻子は自分の部屋に戻っていった。私は食卓の椅子に腰を下ろし、ひとつため息をついた。
 麻子に気付かれるほど私は浮かれていたのか。そんなにも彼のことが気になっているのか。
 グレイの髪、すこし痩(こ)けた頬、長い綺麗な指。下駄、印半纏、日傘。そして、とても気持ち良く、でも、寂しく微笑むところ。
 また急に胸が高鳴ってきた。どうかしている。落ち着かないと。仕事上の関係なのだ。私は懸命に自分に言い聞かせた。あと一度会って、原稿を渡してOKが出たらそれで終わりだ。もう会う機会はない。
 あと一度きり? もう会えない?
「……ああ」
 わけのわからない呻き声のようなものが勝手に漏れた。私は完全におかしくなっていた。
「木綿子、木綿子。来てくれ。漏れそうだ」
 父が奥の部屋から怒鳴っていた。父はポータブルトイレやオムツを嫌がる。デイサービスなどで外へ出るときは人前で粗相をすることを怖れてオムツをはくのだが、家の中では決してはかない。だから、すこしでも介助が遅れたら失敗してしまう。それでも「通常の排泄」にこだわるのだ。
 私は慌てて父の許に向かった。支えてトイレまでつれて行ったが、間に合わなかった。
「おまえがぐずぐずしているからだ」
 父に怒鳴られながら後始末をしようとすると、階段を降りてくる音がした。
「……お母さん、ここ、やっとくから」
「ありがとう。じゃあ、廊下はお願い。お母さんはお祖父ちゃんの着替えを手伝うから」
 私は麻子を見た。麻子も今にも泣き出しそうな顔をしていた。 
「お母さん、ごめんね」
「なに言ってるの。こっちこそ助けてくれてありがとう」
 すると、麻子が苦しげに眼を逸らした。そんな私たちを見て、父が苛々と文句を言う。
「お父さん、身体を拭くから」
 慌てて麻子から引き離した。父はずっと文句を言い続けているが、聞かないようにしながら着替えさせた。