父の身体を拭きながら、ずっと霧のことを考えていた。
 白鳥霧。
 しらとりきり。
 シラトリキリ。
 小声で繰り返すと音の響きがまるで薄氷のようだ。
 穏やかで、気さくで、それでいて品のある男だった。周りのみなに上手に気を遣い、決して人を不快にさせるような言動はしない。だが、気遣っていることを悟らせない。二度会っただけだが、こんなにも自分自身をコントロールできる人間がいるのか、と感嘆した。
 そんな非の打ち所のないような男だが、ひとつだけ制御できていないものがある。それは寂しさだ。霧はいつも気持ちよく微笑み、ときには冗談を言い、ときには子供を叱ったりするが、なにか寂しいのだ。それは江戸時代から続く蔵に巣くう、ひんやりとした祟りのようなやりきれなさだった。
 ヤマトタケルは神の怒りに触れて命を落とした。霧もどこかで神の怒りに触れたのかもしれない。だから、こんなにも寂しい。
 そんな感傷的な想像がしっくりくるほど、霧は私にとって非現実的な、神話のような存在に感じられた。
「……おまえはなにをやらせても出来損ないだな。愛想もないし気も利かん。女は黙って男の言うことを聞いておけばいいんだ」
 私が相手にしないので、父の声が大きくなった。聞き流そうとしても勝手に耳に入ってくる。これは病気のせいではない。いくら高次脳機能障害で抑制が利かなくなったとしても、元々心の中にないことは言えない。これが父の本質だ。だから、もうどうすることもできない。
 泣きたいのに涙も出ない。その代わりに歌が出た。
 ――白鳥は哀しからずや。空の青、海のあをにも染まずただよふ。
 霧は私にとって夢だ。とても美しい神話。ただ一羽、青い空を飛ぶ白鳥だ。そして、霧が美しい白鳥なら、私はイバラに縛られて血を流す老女だ。
 尿の染み込んだペーパータオルをゴミ箱に捨てながら思った。霧と一緒に空を飛べたら、と。
 

【関連記事】
遠田潤子の小説連載「ひとりゆらめく」第1回
遠田潤子の小説連載「ひとりゆらめく」第4回
遠田潤子の小説連載「ひとりゆらめく」第5回