父の身体を拭きながら、ずっと霧のことを考えていた。
白鳥霧。
しらとりきり。
シラトリキリ。
小声で繰り返すと音の響きがまるで薄氷のようだ。
穏やかで、気さくで、それでいて品のある男だった。周りのみなに上手に気を遣い、決して人を不快にさせるような言動はしない。だが、気遣っていることを悟らせない。二度会っただけだが、こんなにも自分自身をコントロールできる人間がいるのか、と感嘆した。
そんな非の打ち所のないような男だが、ひとつだけ制御できていないものがある。それは寂しさだ。霧はいつも気持ちよく微笑み、ときには冗談を言い、ときには子供を叱ったりするが、なにか寂しいのだ。それは江戸時代から続く蔵に巣くう、ひんやりとした祟りのようなやりきれなさだった。
ヤマトタケルは神の怒りに触れて命を落とした。霧もどこかで神の怒りに触れたのかもしれない。だから、こんなにも寂しい。
そんな感傷的な想像がしっくりくるほど、霧は私にとって非現実的な、神話のような存在に感じられた。
「……おまえはなにをやらせても出来損ないだな。愛想もないし気も利かん。女は黙って男の言うことを聞いておけばいいんだ」
私が相手にしないので、父の声が大きくなった。聞き流そうとしても勝手に耳に入ってくる。これは病気のせいではない。いくら高次脳機能障害で抑制が利かなくなったとしても、元々心の中にないことは言えない。これが父の本質だ。だから、もうどうすることもできない。
泣きたいのに涙も出ない。その代わりに歌が出た。
――白鳥は哀しからずや。空の青、海のあをにも染まずただよふ。
霧は私にとって夢だ。とても美しい神話。ただ一羽、青い空を飛ぶ白鳥だ。そして、霧が美しい白鳥なら、私はイバラに縛られて血を流す老女だ。
尿の染み込んだペーパータオルをゴミ箱に捨てながら思った。霧と一緒に空を飛べたら、と。
出典=WEBオリジナル
遠田潤子
作家
1966年大阪府生まれ。関西大学文学部独逸文学科卒業。2009年『月桃夜』で日本ファンタジーノベル大賞を受賞しデビュー。『雪の鉄樹』が「本の雑誌が選ぶ2016年度文庫ベスト10』第1位、『オブリヴィオン』が「本の雑誌が選ぶ2017年度ベスト10」第1位に輝く。『冬雷』で第1回未来屋小説大賞、25年『ミナミの春』で山田風太郎賞を受賞。他の著書に『銀花の蔵』『イオカステの揺籃』『天上の火焔』などがある。
