
60歳を過ぎた木綿子は父の介護と引きこもりの娘の世話に日々追われている。不幸ではないが、いろんなものを諦めてきた人生だった。けれど、ひょんなことから知り合った2歳年下の男と出逢う。二人は互いに惹かれていくが……。遠田潤子さんが描く、静謐で過激な大人の恋愛小説。ぜひお楽しみください。
序章
朝の五時、外はまだ暗く空には月が残っていた。空気は生ぬるく湿気を含んでいる。十一月だというのにまだ夏が残っているようだ。私は自転車を止めて帽子を深くかぶり直し、白髪交じりの髪を押し込んだ。
一年半ほど前、ある男と出会ったことをきっかけに髪を染めるのを止めた。女優やアーティストのような、上品で知的なグレイヘアを目指すことにしたのだ。
あれから一年が過ぎて私は六十二歳になった。結局、その望みは叶わず、今はただ白髪の目立つみすぼらしい女だ。
店に着くとベイク担当の金沢(かなざわ)がすでにパンを焼きはじめていた。
「山際(やまぎわ)さん、おはよう。今日はなんだか夏に逆戻りしたみたいだね」
「おはようございます。金沢さん。ほんとにじめじめしますね」
金沢は元々正社員だったが、今は定年後再雇用で働いている。駐車場とアパート経営をしながら果物を作る農家で、早朝にパンを焼きに来るのは趣味らしい。
申し送り事項が書かれたボードを確認すると、私宛のメモが貼ってあった。
――山際さんへ。十一月十五日、十一時受け取りでサンドの予約が入りました。確認お願いします。
予約台帳を確認すると、パーティサンドイッチ二十人前、半分はマスタード・ピクルス抜き、とある。
昼間にパーティか。半分はマスタード抜きということは子供用だろうか。デザートは付けなくていいのだろうか。確認しなくては、と考えながら手を消毒して仕事に取りかかる。
