その上、「お母さん、あなたの育て方が、子どもの一生を決定します」と、科学的な装いのもとに心理学が母親を脅迫する。共働きの母親のステレオタイプは、インスタントのそうざいパックの味気ない料理、手抜き家事と雑然とした室内、その中でかまわれずに育つ哀れな子ども、という図式だ。やれ非行だ、自閉症だ、となると、すぐに母親が働いていたから、に結びつけられる。実際には、母親が働いていない〈ふつう〉の家庭の子の方が、非行を多く起こしているにもかかわらず、である。

言うに言えない苦労をしながら、かつ周囲の無理解と非難に耐えた上で仕事をつづけてもなお、子持ちの女は、職場で半人前に扱われるという口惜しさを味わわなければならない。やれ子どもの病気だと言っては休み、試験だと言っては残業を断る。「やめりゃいいんだよ」という同僚の冷たい視線を背中に感じながら退社する。母親の不安定な気持ちを映し出すように、子どもが情緒障害や問題行動を引きおこす。結局は涙をのんで退職する女たちを、私は何人も知っている。

「仕事も家庭も」こなすスーパーウーマンの登場
~「女性解放」第Ⅲ期

女性の職場進出がこんな暗いハナシばかりでいろどられていたら、そこまで犠牲を払って得られる自立なんてまっぴら、と女たちが思っても無理はない。けれど戦後三十年余、女たちは強くなりつづけて、「仕事も家庭も」らくらくこなす女たちが現われた。

今では、バリバリのキャリアウーマンが、結婚して子どもを持っていても誰も驚かないし、女っぽい粧いであらわれたら、かえってセンスの良さをほめるくらいだ。たとえば「仕事か家庭か」の時代の私たちのヒーロー――ヒロインと言うべきだろうか?――は、結婚もせず、子どもも持たず、この道一筋に歩んだ大先輩、市川房枝さんのような人だが、今日、「仕事も家庭も」の時代のモデルは、労働省婦人少年局長を経験した森山真弓さんのような人だ。彼女は、自分自身が高級官僚で、衆院議員の夫を立派に持ち、二児の母である。主婦としての役割をこなした上で、なおかつ、男顔負けの仕事をこなすスーパーウーマンである。

もちろん、こんな生活は、誰にもまねができるものではない。家庭と仕事と、いずれの領域においても一人前の仕事をこなす女たちは、つまり二人前以上の能力のあるスーパーウーマンたちで、彼女らは、能力と、何よりも体力と、そしてそれに劣らず運に恵まれている。こういう女性の周囲には、たいがい姑か実家の母がいて子育てを助けてくれているものだし、何より肉体的にタフである。自分も、そして夫も子どもも、健康でなくては、こんな生活はもつものではない。

いつの時代にも、こういうずば抜けたスーパーウーマンは、人口の何パーセントかいて、彼女たちの姿は女たちの希望の星になってきた。だが能力も体力もないふつうの女がこのまねをしようと思ったら、まずただちにカラダをこわすのがオチだ。無理をしてへこたれる女たちを、責めるのは酷である。無理をしてもへこたれない方が、とくべつなのである。

なるほど、仕事も家庭もさっそうとこなすわれらがスーパーウーマンの姿はきらきらしい。もちろん能力に劣らず努力もしていることだろうが、女だってがんばれば、あんなふうに自立と解放をかちとることができる、というモデルを提供してくれそうに見える。仕事も家庭も、と欲ばって、それを全部実現してしまう、女の自己実現のお手本のように思える。だが、概してこういう女性たちは、自分の能力と努力のレベルを標準にものを考えるから、自分なみに力もがんばりもないふつうの女たちに対して厳しい。彼女たちは、ダメな女の甘えを批判するが、その裏には、できる女のおごりがある。アメリカの社会学者は、これをうまく名づけて「女王蜂症候群」と呼んだ。