「仕事も家庭も」両方望んで、どこが悪いだろう
~「女性解放」第Ⅳ期
「あなたは仕事と家庭を両立しますか?」という問いは、ふつう男には向けられない。「両立」は、女だけの課題であって、そのためには女は二人前の能力と努力を支払わなければならない。男たちはとっくに「仕事も家庭も」手に入れているというのに、彼らのその「両立」は、人並み以上の努力の結果だろうか? ただの男があたりまえのようにして手に入れている仕事と家庭と子どもを、女が手に入れようと思えば人並み以上の努力を払わなければならないなんて、どこかおかしいんじゃないか。
もちろん、ただの男が「仕事も家庭も」両立してこれた背景には、女に家庭責任を全部押しつけたせいがあるが、世の中では、大して能力のないただの男が、大して努力も払わないでちゃんと仕事を得ているし、家庭も子どもも持っている。だとしたら、ただの女が、大して努力をしなくても、「仕事も家庭も」両方望んで、どこが悪いだろう。「仕事も家庭も」パートⅠが、エリート女の自己解放だとしたら、「仕事も家庭も」パートⅡは、ただの女の居直り解放だ。
とくべつな女でなくても、どんな女でも、仕事も家庭も両方持てて当たりまえ、というところにまで、女性解放の考え方は進んできている。フェミニズムのすそ野は大きく拡がって、大衆化した。そうなれば、ただの女が「仕事も家庭も」持てるための条件が必要になってくる。
かつて「仕事も家庭も」手に入れようとしたエリート女たちは、自分のがんばりで両立させるほかなかった。職場に出れば、家庭を顧みず男なみに働くことを要求された。そうしてはじめて、一人前の労働者だと認めてもらえた。
そういう女性にとって、「お子さんが病気だからすぐに引き取りに来て下さい」という保育所からの電話は、仕事の妨げになる災厄と聞こえただろう。おそるおそる退出していく自分の背中に、同僚男性の冷たい視線を感じ、ああこれでまた責任ある仕事をまわしてもらえない、と思う。女性たちは、こんな時、病児保育があったら、と切実に望んだものだ。
しかし子どもの側からすれば、それでなくても病気で不安に陥っているのに、行きなれた保育園じゃなくなじみのない病児保育施設に放りこまれるのは、もっとかなわないにちがいない。病児保育を、というのは、大人の側の要求だ。いや、母親本人の要求というよりも、職場の側の要求だ。病児保育の代わりに、堂々と休みをとって子どもの側にいてやって、どこが悪い。どのみち仕事は他人が代わっても大差ない、という程度のものだ。それにくらべれば、子どもにとって自分はかけがえのない存在じゃないか。
●「男なみに働く」からオリはじめる女たち
病児保育を、という要求は、今では子どもの看病休暇を、という要求にとって代わりつつある。この変化には、実は大へん大きな発想の転換がともなっている。職場の中で男なみに働いてはじめて一人前、という考え方から、女たちはオリはじめている。生活の中で自分にとって何が大事かを考えれば、家庭を切り捨てての労働なんて、まっぴらごめん、と女たちは思う。女たちは、仕事なんて家庭を犠牲にしてまでやる値うちのあるものだろうか、と思っている。仕事優先の考え方は、職場のつごうで、わたしのつごうじゃない。そもそも男たちが、仕事優先で家庭を顧みずに仕事にうちこんで来られたのは、家庭責任を女に任せっきりにしたおかげじゃなかったのか。