彼女たちは、ダメな同性の力とがんばりの無さが口惜しくてたまらない。「私がこんなにがんばってるのに、あなたたちが女一般の評判を悪くしてるのよ、女の足を引っ張るのは女だっていうのは、ほんとうね」と嘆く。「女ってやーね」と同性批判をする彼女たちに、男の同僚は「そうだ、そうだ」と便乗する。「女って、責任感がなくて、自分勝手で、視野が狭くて、そのくせ注意されるとすぐにヒステリーを起こす。あれじゃ、職場で差別されても無理はないよ」「ちょっと待って、あたしも女よ」と切り返す相手には、こう言ってやればいい――「キミ? キミはとくべつだよ。キミは、ふつうの女じゃない」。彼女は自己満足にニッコリすること、うけあいだ。
かつて、「仕事か家庭か」の時代には、「女は職業を持たない方がよい」、はては「持つべきでない」という通念が支配的だった。その中で職場に入っていった女たちは、職場の女性差別を覚悟の上だったし、差別はやむを得ない、当然だ、と思われていた。だが「仕事も家庭も」の時代には、能力のある女は職場にとどまってもいい、となり、その上有能な女性が家庭にひきこもるのは社会の損失だ、というところにまで考えが変わってきた。そういう能力も努力もともなった女性に対して、職場の女性差別があるのは不公正だ、と考えるところまで、世論は変化してきた。
●「そこまでやらなきゃならないんなら、わたしオリルわ」
ただし、職場の女性差別は不公正だ、と答える大多数の女性たちは、内心じくじたる思いを抱えている。がんばってるあの女(ひと)には悪いけど、わたしはあそこまでやりたくないわ。だから、ほどほどに、身を入れずに仕事をしている自分は、とても男子社員なみに働いてるとは言えないし――もちろん企業は、男子社員なみのやりがいのある仕事なんて、女にはやらせてくれない――だから自分の仕事ぶりを考えれば、差別されるのも仕方がないという気にもなる。
スーパーウーマンは、万人のモデルにはならない。彼女らのかがやかしい姿を見れば見るほど、できる女(ひと)はやればいい、わたしは足を引っ張るようなことはしたくない、でも自分にはとても無理だわ、とただの女は思ってしまう。それを見たできる女は、「だから女は」とくやしがる。女同士のちがいは開く一方だ。
事実、仕事と家庭を両立させようと悪戦苦闘している女性の生活は、すさまじい。見ているだけでこちらが疲れてしまうほどだ。その実状を見て、そこまでやらなきゃならないんなら、わたしオリルわ、とエリートならぬただの女(ひと)たちが思ったとして、誰が責められるだろう? 今の若い女性たちの意識は、やりたい女はやればいい、でも私はべつ、というものだ。自分の能力の限界を知っている女の子たちに、能力以上の努力をしないからと責めるのは、そちらの方が見当ちがいというものだろう。
「仕事も家庭も」の自己実現は、今までのところ、エリート女の自己解放だった。エリート女とただの女の食いちがいは、労基法の女子保護規定の改廃をめぐってあらわれている。「深夜労働の禁止」規定の廃止に賛成するのは、新聞、TVなどのマスコミ労働者と管理職の女性たちだ。なるほど事件を追いかけている婦人記者が、「ハイ十時です。規定ですからお帰り下さい」となれば、仕事にならないにちがいない。こんな保護規定があるから出世の妨げになる、と彼女たちが考えるのも無理はないが、彼女たちは何十倍もの難関をくぐって男社会にもぐりこんだエリート女性労働者だ。
深夜業務禁止規定がなくなれば、大多数の底辺労働者の間で、深夜勤を妨げる理由がなくなる。とりわけ、これから花形のコンピュータ産業の中で働く、オペレーターなどの〈底辺〉女子労働者たちは、機械を遊ばせておくのがもったいないという理由で、機械に合わせて深夜勤を強いられる、女工哀史の現代版になりかねない。
平等が欲しければ保護は手放せという「保護か平等か」の二者択一を、政府は女性に迫っている。女性運動家たちが、この一見もっともな政府案に、「保護も平等も」という「非論理」で闘っているのは、平等の代わりに男なみに働くことを強いられるなんて、まっぴらごめん、という考え方からだ。この「保護ヌキ平等」が、一部のエリート女たちを残して、大多数のただの女たちを、職場から切り捨てる結果になることを〈論理的〉に見抜いているからだ。