里心労働者、という言葉がある。職場で晩のオカズのことを考えている女性のことを言うのだそうだ。生活者なら、晩のオカズは大問題だ。男が晩のオカズのことを考えずにすんでいるのは、ヨメさんに任せっぱなしにしてるおかげにほかならない。里心労働者でどこが悪い――これが女の論理である。

女は家庭を支えながら仕事をしている。仕事を愛しているが、家庭を犠牲にしてまでうちこむ値うちのあるものとは思わない。これが健全な生活者のバランス感覚というものだ。「男なみ」を要求されるのはまっぴらだ、「女なみ」でどこが悪い――女の自信と実力は、ここまで来ている。

だからと言ってこれを、女性差別の口実にされるのは困る。男と女の間の平等を達成するには、二とおりの方法がある。一つは、女が「男なみ」になることである。長い間、女性解放は、この路線で考えられてきた。だから、男女平等とは、女が女らしさを失って男性化すること、と短絡的に考えられてきた。もう一つの方向は、逆に男が「女なみ」になることで両性が平等になる方法だ。女はとっくに職場進出を果たし、男社会の中に食いこんだ。今度は、男たちが、家庭に戻ってくる番じゃないのか。男たちの側で、「仕事と家庭」の〈両立〉が、問われるべきじゃないのだろうか。

念のために付け加えておくが、男の「女なみ」化は、安直に考えられているように、男が「女々しく」なること、男の中性化を意味しない。逆に、男らしさの囲いでやっと守られた男のやわなアイデンティティに、ほんとうの自信を回復させてあげる道だ。

あたりまえの女と男の解放

まとめて見よう。女性解放の道すじは次のような段階を追って進んできた。

 第Ⅰ期「仕事か家庭か」
 第Ⅱ期「仕事か子どもか」
 第Ⅲ期「仕事も家庭も」パートⅠ
 第Ⅳ期「仕事も家庭も」パートⅡ


私たちは現在第Ⅳ期にいる。が、あいかわらず、女性解放のイメージを、古めかしいⅠ期やⅢ期のステレオタイプでとらえる人々がいる。頭を切り換えなければ、何が解放か、についての議論は混乱するばかりだ。

Ⅰ~Ⅲ期からⅣ期への転換には、大きな飛躍がある。それは、価値観の転倒と言ってよい発想の転換だ。Ⅰ~Ⅲ期の女性解放は、ひたすら女の努力によって達成されるものだった。それは女の側の問題であり、女〈だけの〉問題だったのである。第Ⅳ期には、女の努力だけでは限界があること、むしろ男の変化こそがかんじんかなめなのだ、ということがわかってくる。つまり、ただの女の解放のためには、男と女と子どもを含めた社会の変化が不可欠なのだ。もう女の問題は、女だけの問題ではなくなっている。

そして、第Ⅰ~Ⅲ期から第Ⅳ期へのこの転換には、1975年の性別役割分担の廃止を明言した国連婦人差別撤廃条約が、大きな力を果たしていることは、もう多言を要さないだろう。

女の集まりで話をするたびに、真剣で熱気を帯びた彼女たちに向かって、口がさけても言いたくないことばがある。それは「がんばって」という一言だ。私は「がんばって」と他人に言うのもイヤだし、他人から言われるのもイヤだ。がんばりたくなんか、ないのだから。それでなくても、女はすでに十分にがんばってきた。がんばって、はじめて解放がえられるとすれば、当然すぎる。今、女たちがのぞんでいるのは、ただの女が、がんばらずに仕事も家庭も子どもも手に入れられる、あたりまえの女と男の解放なのである。

※本記事には、今日では不適切とみなされることもある語句が含まれますが、執筆当時の社会情勢や時代背景を鑑み、また著者の表現を尊重して、原文のまま掲出します
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