竹は女の樹だ。細く、風に容易くしなってしまう。けれど、容易く折れはしない――。江戸の片隅の竹林を背負った家で、「闇医者」として子堕しを行うおゑん。彼女の許に、複雑な事情を抱えた女たちがやってくる。

 

 

〈前回はこちら〉

 

 宗兵衛が顔を向ける。
「先生、診察云々はともかく、親父に会ってやってください」
「ええ、そりゃあこちらからお願いしたいぐらいです。お邪魔はしませんから少しだけでも、会わせていただけますか」
「むろんです。おい、誰か先生に洗い水を」
「はーい」
 澄んだ声がして、小女が水の張った小盥(こだらい)を運んできた。
「あ、よござんすよ。足ぐらい自分で洗えますから」
 小女をやんわりと断り、自分で足を洗っていると、小女はすぐに真新しい手拭いを差し出してくれた。何もかも手際がいい。おそらく、今の宗兵衛の代になってから、伊野屋はさらに身代を肥えさせたのだろう。
「先生、こちらへ」
 宗兵衛が歩き出す。廊下は広く、奉公人たちが行き交っていた。片側は庭に面し、片側には部屋が続いている。障子が開け放たれていて中がよく見えた。どの部屋も板敷で、畳は敷いていない。百味箪笥が並び、一番奥の部屋では、数人が薬研を使っていた。
 薬草の匂いが濃く漂う。
 やはり、ずい分と様子が変わっている。おゑんの記憶にはないものばかりだ。
 まあ、それも当たり前だね。あたしはまだ……。
 十五だった。
 ふと、足が止まりそうになる。冷えた指が足首を掴んだように感じる。背中に汗が滲んだ。行くな、いや行かさぬぞ。来し方から伸びた手に動きを封じられている。
「先生?」
 気配を感じたのか、宗兵衛が振り向く。そして、小首を傾げた。
「どうされました。大丈夫ですか」
「ええ……久しぶりに伊野屋さんに会うと思うと、何だか逸(はや)ってしまって。気持ちに足が追い付かないんですよ」
 曖昧に笑い、誤魔化してみる。
 会わなければならない。聞き出さなければならない。先代伊野屋宗兵衛が生きて、まだしゃべれるのなら、何としても知りたいことがある。
 今は今、過去は過去。ここで過ぎた日々に足止めを食らって、怯(ひる)むわけにはいかない。
 おゑんの知っている伊野屋の主、宗兵衛はまだ生きて、この世にいるのだ。
 そう、怯んでいる暇はない。
 足首から指が離れた。軽くなる。
 おゑんは息を整え、足を前に出した。

「医者が関わっている?」
 おゑんは甲三郎の横顔を見詰める。
 この一件には医者が関わっているかもしれない。
 そう告げた男の顔だ。その顔がゆっくりとおゑんに向けられる。
「へえ」と短い返事があった。暫くの間の後、甲三郎は、
「驚かねえんですね、先生」
 と、少し緩めた口調で言った。
「あたしを驚かせたかったんですか」
「ええ、そういう気持ちもありやした。あっしの一言で先生が仰天してひっくり返る……とまではいかなくても、何も言えなくて黙り込むぐれえは、ありじゃねえかと勝手に思ってたんでやすが、今度もどうやら空振りだったようでやすね。あ、すいやせん」
 お春から足洗いの盥を受け取り、甲三郎は手早く足の汚れを落とした。
「お春さん、末音を呼んできておくれでないかい。できれば一緒に話を聞いてもらいたいんだけど。もちろん、お春さんもだよ」
「お三人が揃うってわけですかい。そりゃあ、おっかねえな」
 甲三郎がひょいと肩を竦める。剽軽(ひょうきん)な仕草だ。けれど、目は笑っていない。
 お春はすぐに、末音を呼んできた。その末音は部屋に入るなり、茶の用意を始める。袖から茶葉を取り出し急須に湯を注ぐと、微かに甘い香りが広がった。
「それじゃ、甲三郎さん、お話を聞かせてもらえますかね」
 障子の前に座っていた甲三郎は、おゑんからお春、末音と視線を移した。それから、おゑんへと戻す。
「へえ。とはいえ、お伝えできることは、そう多くはねえんで。まずは、“役者の治兵衛”が殺された一件でやすが、殺される前日の夜、揚屋町(あげやちょう)の飯屋でしこたま飲んで店の女中を口説いていたらしいんで。お房(ふさ)……その女中の名前でやすが、全部、話してくれやした」
 吉原の飯屋で働く女。つまり、酸いも甘いも噛み分けられ、世間の正体をある程度は知っている。そういう女なわけか。
「治兵衛は自分の見た目によほどの自信があったらしく、どんな女でも口説けると思い込んでいた節があって、それが、滑稽でみっともなかったと、お房は嗤ってやしたね」
「なるほどね。お房さんとやら、なかなかにしっかり者じゃありませんか」
 上っ面に騙されないだけの芯を持っている。
「へえ、まったくで。でやすから、いろいろと話を聞けやした。お房の言うところによると、治兵衛は金回りはよかったようで、お房を口説くときも『贅沢させてやる』だの『欲しい物を買ってやる』だのって台詞をやたら口にしてたんだとか。お房が相手にしなかったので、面だけじゃ引っ掛けられないと金持ち風を吹かし始めたってこってしょうね」
「どうしようもない男ですねえ。けど、それは、気に入った女を口説くためのいい加減な戯言じゃなかったんですね」
「ええ、巾着の中身を見せたそうでやす。大判小判がざくざくというわけじゃなかったけれど、かなりの金子が入っていたみてえですぜ。少なくとも、半端な遊び人が持てるような金じゃなかった。そして、まっとうな金じゃないとも、お房は感じたそうで、相手にしちゃあいけないと改めて思ったんだそうでやす。とはいえ、治兵衛が手の中に押し込んできた二朱は遠慮なく貰ったそうですがね。なかなかに、したたかな女ですよ」
 その通りだ。したたかで賢い。
「で、貰った分だけは愛想もしようと、お酌したり話し相手になったりしたところ、治兵衛は自分は今、金に在り付ける仕事をしていて、まだこれから、たんまり稼げると言い切ったんで。お房がどんな仕事なのかと問うたら、はっきりと『医者絡みだ』と答えが返ってきたんだとか」
 おゑんは顎を引き、僅かに眉を顰めた。
「その医者ってのは、あたしのことでしょうか。いや、それはあり得ませんねえ」
「あり得やせんか?」
 甲三郎が窺うように、おゑんの顔を覗き込む。
「ええ、少なくとも、金の出所はあたしじゃないのは確かですね。それに、あたしに絡んで大金が動くなんてのも、ちょいと浮世離れしてますよ」
 末音が湯呑を配る。
 萌黄(もえぎ)色の茶は僅かな甘味と苦味が混ざり合って、奇妙な味がした。
「末音、これは何の茶だい。一風変わった味だねえ」
「そうでやすか。美味いですぜ。口の中が、さっぱりしやす」
「確かにさっぱりするけど……あっ、末音さん、これ笹のお茶ですか」
「ほほ、さすがお春さん。ようわかりましたなあ。ええ、隈笹(くまざさ)を主に使うております。疲れを取るには、ようございます。それに、胃の腑や腸の不調にも効きますで。おゑんさまも甲三郎さんもお春さんも、お疲れのようでしたから丁度良いかと思いましてね、お淹れしてみました。ご遠慮なくどうぞ」
「まったく、何でもない顔をして。新しく混ぜ合わせた薬茶を試してみただけだろ。まあ、でも、確かに胃が重いときや食気がわかないときには、いいかもしれないね。うん? どうしました、甲三郎さん」
 湯呑を見詰めていた甲三郎が顔を上げる。おゑんと目を合わせ、小さな吐息を零す。
「薬……でやすか、先生」
 おゑんは視線を絡ませたまま、唇を噛んだ。
「医者絡みで、大金が入る。となると……新しい薬か何かが関わってくるんじゃねえですか。違いやすかね。うーん、突拍子もねえ思案か……」
「さすがですね、甲三郎さん」
「え、さすが?」
「実は、そのことについてお春さんと末音と三人で話してましてね」
 隈笹の茶を飲み、おゑんは先日の話を語って聞かせた。甲三郎は湯呑を握ったまま、ほとんど動かない。おゑんの語りに耳を傾けている。そして、おゑんが話し終え、一息つくのを待っていたかのように、呟いた。
「……越冬虫でやすか。あの事件がまだ尾を引いているわけか」
「尾を引いているというより、新たな面倒事を引き起こしたって感じじゃないでしょうかね。もっとも、今、しゃべったことは、みんなただの推量に過ぎません。何一つ、証があるわけじゃないのでね」
「けど、越冬虫を上手く使えば、患者の痛みを消せるわけでやしょ。医者からすれば、喉から手が出るほど欲しい薬じゃねえですかい」
 おゑんは、ゆっくりかぶりを振る。
「そんなわかり易い話じゃありませんよ。調合の手立てがまるで立っていないのですからね。末音でさえ、四苦八苦しているんです。他の者がそうそう手軽にできるとは思えません」

(この章、続く)

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