本自叙伝が掲載された『婦人公論』昭和11年10月号

「日本の女」という重い責任をせおわされ

振り返って見ると、此二十年の間、気の弱い子供のようなムキ出しの感情を持った私が、女の身で、誰一人相談相手もなく、世界のあらゆる国々を経めぐって、しかもまた他方には「日本の女」という重い責任をせおわされ、よくも心細い道を渡って来られたと思う。

しかもいろいろの迫害や、心細い淋しさなど、華やかな喝采の裏には必ずつきまとっているものだ。

試みに、自分が歩いて来た国々をあげて見るなら、英国を振り出しに、北アメリカ、南アメリカ、ハバナ、キューバなどで名高い中部アメリカ、伊太利、スペイン、ギリシヤ、エジプト、ドイツ、オースタリー、ロシア、レトアニアなどの諸国である。

そういう果てから果迄の国々を歩いていて、何よりもはっきりと心に来るのは、自分は日本の女だという意識である。これを汚してはならないという意識。それは不思議な程強烈なものであった。だから私はどのようにいい友達同士になろうとも、日本の国籍をふりすてて、外国人と結婚しようなどとは、私は一度も思ったことはないのである。

が、しかし、私は今、それらの国々に残して来た夢を忘れて、愛する老母と、東京に生活している。人が見たら本当に粗末な、簡易なと驚く程の生活をしてい乍(なが)ら、しかも私は非常に幸福なのだ。愛しても愛しても、愛したりない程、私は老いたる母を愛している。 

 

鶯小町と言われた祖母

(二)

私の母、柴田とわ子は、私の口からいうもおかしいが、美しい男勝りの気性だった。

父はそのころは真面目一方の男で、遠州朝日奈村、今の吉岡弥生女史と同郷だが、その朝日奈村の地主で、酒造業を大きく営んでいた。

名前を柴田孟甫(もうぼ)といったが、大変な働きもので、一日に作男を相手に、五百斗の酒をこなすのは何でもないといわれていたくらいだ。

母が嫁いで来た頃は、四十幾歳かの姑がいて、つまり私の祖母なのだが、それがまた朝日奈小町といわれた位、近郷近在に鳴り響いた器量好しで就中声の美しいことは評判だった。かげでは鶯(うぐいす)小町などというものさえあったそうだ。

祖母が野良へ出て、百姓をし乍ら、何ともいえぬいい声で歌を歌うと、畦道を通る人達が、皆立止って耳をかたむけないものはなかったという。

――お祖母さんが、臼を引き乍ら歌いなさる歌は、今でも耳についておるよ。いいお声じゃったがね、それにまあその美しいことといったら、若く艶々としていて、嫁の私の方が余程老けて見られる位じゃった。

母がよくそういって私に話して聞かせてくれた。私はお祖母さんの顔はよく覚えているが、残念なことにはその声には少しの記憶もないのだ。

後年私が音楽の道に志すようになったのも、一つはこの祖母の素質を受けついでいたのかも知れない。

南国の晴れた青い空に響く祖母の歌声は、どんなに美しかったろうと、私は母の話から、いつも想像するのだ。