二十時間も一声も泣かなかった赤ん坊
父はなかなか青雲の志を抱いた人で、何しろ働き者だったから、家業の酒作りで、ざくざくと面白いように御金がもうかったというから、このまま一介の酒造りで終わってしまい度くないと思ったのだろう。それには弟があって、その弟にも学問をさせてやりたいし、田舎の家を畳んで、丁度父が二十八歳の年に上京して来たのだ。
芝の今入町に五間程の家が百円で売物に出ているというので、それを買い取って住居を定めた。明治十四年だったがその頃の物価はこんなものだったらしい。
父は法律を勉強するために、今の明治大学、その頃の明治法律学校に入学した。
当時は学生の年などは一向かまわなかったらしく、三十、四十の法律書生などは少しも珍しくなかった。
それから三年たった冬私は生れたのだ。
私より前に男の子が二人あったが、どれも育たなくって、私は三番目の子供だった。
私の生れた時も、あまり寒さのためか、凍えてしまって、二十時間も一声も泣かなかったそうである。
この数字の因縁ということについても考えたことがある。父が思い切って上京したのが明治十四年、私が外国へ出かけたのが一九一四年、また私は生れてかっきり二十時間泣かなかったそうだが、外国でのオペラシンガーとしての生活が二十年、そういう数字の持つ不思議さを、私は時々考えることがある。
父は男の子が育たなかったから、今度は女乍らも男のように育てるという意味で、環という男のような名前をつけてくれた。
そうして私は温い両親の庇護のもとにすくすくとのびて行ったのだが、そのうちに父は非常な難関だといわれた第一回の公証人の試験に及第して、公証役場をはじめることになった。
絶えず独立ということが、頭にあった母
母もまた父に負けず劣らず頭のいい人で、今から考えれば、その頃では随分進歩的な部類の女だった。父の仕事も段々忙しくなってくるし、自然父も遊びを覚えるようになって、いろいろ女出入で母を苦しめることが多くなったので、母も何かと考えるところがあったのだろう。父にばかり頼っていたのでは心細いというので、生れたばかりの私を女中に預けて、横浜のフェリス女学校へ英語教師になるために、英語を習いに行った。
だがやっぱり赤坊の私が心配になって、中途で思い切るようなことになってしまった。
それでも絶えず独立ということが、頭にあったのかして、今度は日本で初めての編物の講習を、後藤新平さんの奥さんや、澁澤さんの奥さんなどと御一緒に受けて、そこではいっぱし先生代りを勤めることが出来た。
御裁縫を習えば習うで、いつでも先生の代理をしていたし、非常に器用な、頭のいい人だった。そんないろいろなことを自分はし乍ら、私には、女中を二人つけて、文字通り御乳母日傘(おんばひがさ)の生活を送らせてくれた。