三つの年から私は藤間流の踊を始めていた。その翌年御さらいのあった折など私が「静御前」を踊る後に、乳母が牛乳瓶を持って待っているというさわぎ。性来の負けず嫌いがこんなところにも顔を出して、子供心にもきびしい稽古を受けたと思っている。

或時などはこんなこともあった。舞台の前に座っていた先生が、もっと足をあげてとおっしゃるので、自分はもっともっと足をあげようと思うのだが、さっきから用を催していて、足があげられない、足をあげれば必ず粗相をしてしまうに違いない、私は三つ許(ばか)りの子供心にも歯を食いしばって我慢したものである。先生はそんなこと御存じないから、

――どうしたんですか、環さん。

とますます激しくおっしゃる。とうとう我慢し切れずに、美しい着物の裾をぬらして、思うさま舞台の上に、粗相をしてしまったのである。こんな思出は、今思い出しても、子供のくせに我慢強い私であったとつくづく思わされて、なつかしい気がするのである。

環女史八歳の時とその母(誌面より)

「私はこんな声の美しい生徒は初めてですよ」

(三)

六つの年に、私は富士見幼稚園から、芝の鞆絵(とりえ)小学校に入学した。丁度その年から吉住について長唄もはじめていたが、何よりも自分について思出の深いのは、当時の唱歌の先生、植村くに子さんのことだ。

私が初めて君が代を歌った時、「まあ」といい乍らオルガンを弾く手をやめて、私の顔を見入ったものである。

 「まあ、芝田〔ママ〕さん、何といういいお声なんでしょう。私はこんな声の美しい生徒は初めてですよ。しっかり御やりなさいね」

と、植村先生は感嘆し乍ら、私に再三再四君が代を歌わせるのだった。

それからは音楽会や、学芸会のある度に、植村先生が、ヴァイオリンで伴奏して、私は君が代を歌わせられた。

間もなく、私はまた山田流のお琴の稽古を始めさせられて、全く音楽責めというような形だった。が、私自身は遊びたい盛りで、何も特別に熱心に稽古をしようという気はなかったから、いつもずるけて遊んでばかりいた。

大体父が、二人の男の子を亡くしているので私は体育本位、遊びたいだけ遊ばせて置くという主義だったのでちっとも勉強などしなかった。それでも不思議なもので、母などにいわせると、身に備わったものがあるのか、琴でも長唄でも抜群の成績で、学校の方もいつも級長だった。

十四の年に虎の門女学館へ入学した。当時の虎の門というのはなかなか華やかな学校で。いろいろの小説などにもうたわれて、一世を風靡した時代だった。