才能とか天分とかの外に
(一)
私が日本の生活を離れてから、振り返って見ると早いもので。もう二十年になる。よくも旅の空で暮らして来たものかなという感がさすがに深い。
――どうです、今度こそ、もう日本にお落ち着きになりますかな。
人々は私の顔を見ると余程気になると見えて、皆そういって聞く。もういい加減に落ちついたらよさそうなものだという相手の気持が、私にも解らないのではない。解らないどころか、日本は帰って来る度に、段々住みよい国になっているし、此頃は町を歩いていても、自分の周囲にいる人達が、皆日本人だなと意識する毎(ごと)に、何ともいえない心強さを感じる。
「ああ自分は日本にいるんだな、自分のまわりにはこんなに沢山の日本人がいるんだな」と思う時の非常に安易な気持、これだけは長い間外国に暮らした人でないと、解って貰えないと思う。
私がそんな風に考えるのは、それだけ年を取ったのかと思うこともあるが、これは決して年の故(せい)ではない、いわばどうしても消すことの出来ない、民族的な気持なのであろう。
年のことがでたからついでにいって置きたいと思うが、私は明治十七年の二月二十二日生れだから、丁度(ちょうど)今年で五十二歳になる。
もし永遠の子供というものがあるなら、私に一番ふさわしい言葉であろう。私は五十になった今でも、全く生れたままの、子供のような気持、素直にあるがままのものを受け入れ、素直にものに驚く気持を持ち続けている。私が少しでも人に愛せられ、比較的長い間唄い手としての名声を持ち続けてこられたのも、才能とか天分とかの外に、こういう気持ちがあったからであろう。
このほとんど、生のままの子供らしい感情が、いつ迄も私から年というものを感じさせないのであろう。しかしこの感情のために、私は損をしたことも随分多いのは事実だ。このために自分の行動は、或時は突飛(とっぴ)にも見え、また見る人によってはお芝居染みても見えたであろう。それがために自分の運命は複雑になり、つまらぬ誤解なども受けることが多かったが、それだからといって、自分の子供のような感情を、自分自身、少しも厭だなどとは思ってはいない。
私がかつて亡き三浦〔編集部注:夫・三浦政太郎のこと〕の墓前で歌を歌っては泣き、畏友サルコリー氏の死に際しても、歌を歌っては泣いたということでとやかくいう人もあるらしいが、それらは皆私の感情の自然な流露なのである。私はああいう風にしか自分の感情を表現する術を知らないし、突如として私の感情は高まり、私は全く自然の児のままに涙を流さずにはいられないのだ。
それはともかくとして、そもそも此二十年の間に、私が意識して自分自身偉くなろうとか、そういう風にたくらんで、今の位置に迄到達したのではない。無論私は血の出るようなたゆみなき勉強を続け、また現在でもそれを怠ってはいないけれど、それすらも、自分が偉くなろうという意識でやっているのではなく、自然自然に水の低きにおし流されるように、現在の三浦環という境地に来てしまったのである。