ここでもまた、外の学課より第一番に、私の音楽の才能は、杉浦ちか子先生によって認められて、しきりに上野の音楽学校入学をすすめられたものである。

父はもとより大反対で、女に女学校以上の教育は不必要であるばかりでなく、ましてや音楽学校へ入れて西洋音楽など修めさせるとはもっての外、そんな西洋の音曲など習わして、西洋の芸者にでもさせるつもりかと、大立腹だった。

 

本当にお母さんを幸福にしてあげたい

此間にあって、母はいろいろ私を慰めてくれた。

――お父さんはね、お前に早くいい養子を取って、安心なさりたいんじゃ。でも、そんなに行きたいというんなら私からまた何とかお父さんに話してあげようね。

――養子なんて、私嫌よ、本当にお母さんお願いだからお父さんに頼んでちょうだいよ。

――それでお前、どうしてもその音楽とかで身を立てて行くおつもりかえ。

――身を立てるって、私そんな深い考えはないのよ。只ね、お母さんがお気の毒でしょう。

というのは、父の女狂いが相変らず止まないで、いつでもお妾が絶えたことのない状態で、母は父から忘れられて、いつもしょんぼり暮らしていたのである。

――気の毒って、それはもうお母さんは諦めているんじゃから。

――だって、私は本当にお母さんがお気の毒でたまらないのよ。だから私は自分で独立して、本当にお母さんを幸福にしてあげたいの。

――そういっておくれなのはうれしいが、でも、お父さんは、あの善一さんを養子にするおつもりらしいからね。

成程その頃、藤井善一という陸軍三等軍医正の男が、私の熱心な求婚者の一人だった

――藤井さんはお前さんお嫌いかえ。

――否(いえ)、嫌いってこともないけれど、じゃあの人を養子にすれば、私を音楽学校へやって下さるか知(し)ら。

――さあ、お父さんはもう、否応なしにあの人を養子にするおつもりらしいからね。

結婚とか養子とかいうことは、いわば誰でもどうでもいいことで、私にはようやく自分の中に目を覚まされた、音楽に対する野望が、大きく燃え盛るばかりだった。