畿内には三好氏や畠山氏が

さらに言えば、もし信長の目的が本当に京都の秩序維持であったなら、先にやるべきことがあったはずです。

当時の畿内には、三好氏や畠山氏などの残存勢力がまだ存在していました。

規模は小さくなっていたとはいえ、まずはそうした勢力を整理するのが筋だったでしょう。

当時の軍事的な常識から見ても、少し違和感があります。

応仁の乱以降、京都を攻める場合は丹波方面を拠点にするのが一般的でした。

あるいは播磨を含めた西側からの進攻です。

天正3年(1575年)から明智光秀や羽柴秀吉が行う軍事行動も、この流れに沿っています。

越前侵攻より5年もあとのことなのです。