日本初演の歌劇「カヴァレリア・ルスチカナ」。左が三浦環女史(誌面より)

第二の夫・三浦政太郎との結婚

父は三浦の心持にすっかり感激し、一日も早く結婚した方がいいじゃないかいうことで、私達はあたふたと結婚させられてしまったのである。

私達の結婚は三浦内科の同僚達を少なからず憤激させた模様で、三浦を誤る奴はアイツだというので、ぶんなぐってやるなどといきまく人達もあったそうだ。

が、とにかく無事に私達の結婚はすんで、三浦はその洋行費をこしらえるために、しばらくシンガポールの三井のゴム園に医者をすることになって、出発した。

例の新聞記事はもみ消しも効なく、とうとう出てしまった。その半年ばかりの間、私の身辺はケンケンゴーゴーとしてうるさいこと許(ばか)りだったので、私は音楽学校の方は辞職してしまった。

例の千明秀作は、三浦がシンガポールへたって行ったのをよいことにして、私につきまとうようになった。つきまとうといっても、ただつきまとうばかりではなく、またいい意味には、いろいろ後援もしてくれて、勿論その心の中にはどんな野望がひそんでいたのかは知らないが、いくらかは新聞記事に対する罪亡ぼしの気持ちもあったのだろう。丁度伊太利からサルコリー氏が来朝したのを機会に、民間だけで歌劇団を成立するように、そのためには随分奔走してくれた。

私も腹を立て乍ら、その男をつい利用した形になっているが、とにかく、日本最初の歌劇のために働くということは、私にもうれしいことだった。

私は一晩五十圓の契約で二十五日間、どの外(ほか)に月給二百圓という、その頃としては法外の報酬で、帝劇に第一回オペラ上演の蓋をあけた。これがまた当時の新劇運動の波に乗って、素晴らしい好成績で、次から次へと新しい歌劇を上演することができて、私達は、苦心の報いられたのを喜んだものである。

サルコリー氏と一緒に、「カバレリヤ・ルスチカナ」のサントツツアもやった。またウエルクマイステル氏の作曲になる「春の女神」「シヤカと新妻」なども上演された。

續いて我が国最初の邦語歌劇「熊野(ゆや)」が上演された。その時のメンバーは、熊野が私、宗盛は清水金太郎氏、侍女の朝顔が山川浦路氏、その他にも石井漠、伊藤道郎、南部邦彦、高出雅夫の諸氏も加わっていた。いづれも素晴らしい成功だった。