思い出のものがあるのも悪くない

たとえば、人間の半分くらいある、埴輪みたいな素焼きの鳥の置物。こんな巨大なものを、いったいどうすればいいのか。しかも兄が運ぶ時にどこかにぶつけたとかで、クチバシが欠けています。革でできたロバとサイの置物は2歳児くらいの大きさで、父が1年半ポルトガルに滞在している間に、どこかで買って送ってきたものです。

父が気に入って求めたものなので、なんとなく処分しがたくてトランクルームに預けていたのですが、こんな場所ふさぎのものをどこに置けばいいのか。考えた末、玄関ホールに置いたお気に入りの椅子の左と右に、脇侍のように立たせました。

送られてきた当時はピカピカでしたが、くたびれ果てたようにボロボロ。でも掃除のたびに撫でくり回しているうちに、私の気持ちもそこに移り、愛着もわいてきました。心なしか艶も出てきましたし、だんだんいいものになりつつあるような気がします。そんな経験を通して、ものが少なくてすっきりした暮らしもいいけれど、思い出のものがあるというのも悪くないなと感じるようになりました。

2番目の家の片づけをしている時、中国の切り絵を額装したものが出てきました。それを見たとたん、「そういえば小さい時に両親の寝室にかかっていた、懐かしいな」という感情がわいてきたのです。新しい家にはちょっと似合わないし、どうしようかと思いながら汚れを拭いたついでに裏板を外してみたら、台紙の裏から叔母の手紙が出てきて。そこには、「この間は素敵なコートを送ってくれてありがとう」と書いてありました。

父は、戦後、長いこと中国で暮らしていた妹に、そんな心遣いをしていたのですね。切り絵と手紙は、そのお礼でしょう。私たちの知らない父の姿を見た気がして、なんとなく胸が熱くなりましたし、ものは過去を辿るよすがになるのだ、と感じました。