話すことばを軽んじてきた伝統

記憶力の超人的なコンピューターがあらわれて、こういう博覧強記の価値は暴落したはずであるが、頭の古い人が多くて、昔ながらの記憶型人間がエリートだという考えから自由になることができない。大部分がコンピューターと競合して、あえなく敗退することになる。

おしゃべりは2人で成立する。しかし、2人では足りない。三人寄れば文殊の知恵、というように、2人より3人の方が、知恵が出やすい。

『乱読・乱談のセレンディピティ』(著:外山滋比古/扶桑社)

しかし、3人でもなお足りない。5、6人が集まって、おしゃべりをすると多元的コミュニケーションが可能になり、おそらく最高の人知のあらわれる可能性が生まれるであろう。コンピューターをいくら集めても、おしゃべりをさせることはできない。

日本はほかの国に比べても、話すことばを軽んじてきた伝統がつよくて、会話ということもなく、ただ、ことばをかわしていた。スピーチということも、明治になるまでおこなわず、したがって、それをあらわすことばもない。明治になって、演説という訳語をこしらえたものの、演説のできる日本人はいなかった。その後、弁論、雄弁などのことばがあらわれたが、談話は文章に及ぶべくもなかった。