仲のよい両親とファザーコンプレックス

中園は、東京・中野区で、父・弘光と母・緑との間に次女として生まれている。両親は共に九州の出身であった。住んでいたのは「4畳半と3畳ぐらいの」、大正時代の古いアパート。小さなステンドグラスの窓があったと記憶している。父は、朝日新聞社で仕事をするフリーのカメラマンだったが、辞めて無職に近い状態になっていた。

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「血気盛んな人でしたから、どうやら社員と大モメしたようです」

母が働いて家族を養っていた。女性週刊誌のフリー記者、その後は生命保険会社の外交員をしていた。

「ものを書く力は母から受け継いでいるかもしれません。母は私が幼いころに喋った言葉が面白かったらしく、毎晩、書き留めていた。そのノートは今も残してあります。私は7歳から詩を書き始めました」

父は無類の酒好きで、昼間から飲んだ。夜は父の友人である画家や音楽家たちが家に集まり、酒を酌み交わして芸術論を戦わせるなど、アカデミックな環境だったという。

父親が職を持たず飲んだくれていると聞けば、家庭はやさぐれていきそうなものだが、そうならなかったのは、両親の仲がすこぶるよかったからだろうと中園は言う。

「普通なら愛想をつかすのでしょうが、母は父に惚れていたし、恋愛の匂いを色濃く感じさせる親でした。母は美しい人で、男と女には、嫉妬とかいろんなものを含めた感情があるのだと、早くに知ってしまったようなところがあった」

そして貧しかった環境についても、「食うや食わずの時もありましたけど、卑屈にならなかったのは、やっぱり両親のお陰でしょう」と話す。

「ただね、友だちの家に行くとピアノがあったりするわけで(笑)。人には言わないけど、秘めた貪欲さはあったと思います。小学校1年の時に書いた詩に、あらゆる欲しいものを羅列した物欲の強い詩があるんですよ。最後は『大人になったら家を買う!』で締めてある(笑)」

級友らが子どもらしい将来の希望を綴った文集の寄せ書きにも、中園はひとり「お金」という一語を書き残している。

中園自身も、一風変わった子どもだった。女子と人形遊びをするよりも、男子らと「公園や神社で虫取りをするほうがラク」だった。なかでも中園が思い出すのは、勝負事である。近くの新井薬師の商店街で、囲碁や将棋をする大人たちに、五目並べや、はさみ将棋で挑んでいた。「ものすごく勝ち負けにこだわって、勝つまでやりました」。

この素地は今、中園が仕事をする世界、「切った張ったの、視聴率の戦場」で生かされている。「博打のような場所が私には合っている。勝負師の面が、どこから生まれるのかはわからないのですけど」。

その後、一家は川崎へと移り住む。親戚の世話で、母がある会社の独身寮の寮母として働き出したからだ。父親はそこで42歳で亡くなった。中園が10歳の時である。過度の飲酒による肝硬変だった。それから10年後、母も末期がんのため、45歳という若さで亡くなった。だが母は中園に、大学卒業までの学費を残していた。

今でも両親が恋しいという中園。

「強いファザコンであり、マザコンでもありますね。ふたりとも若くして逝ってしまった。途方もない喪失感がずっとあります」

〈後編につづく