「そうでしたか」
先代は、お定のどこを見ていたのだろう。
看護の上手さ、よく気が回り優しい人柄、寡黙な性分……そして、何より信用できる。そう、先代はお定を信用していた。だから、書状を託したのだ。それは、裏を返せば、お定よりも信じられる者が伊野屋内にはいなかった。そういういうことに、なる。
「ともかく気を付けてくださいな。疲れはじわりじわりと身体を蝕みます。そうすると病に罹り易くもなりますからね。お定さんのような性質だと、よけいに疲れを溜め易くなりますよ。しっかり食べて、ぐっすり眠る。くよくよ物事を考えない。ひとまず、これを続けていれば疲れは取れますからね。覚えておいてください」
「はあ……」
お定が曖昧に返事をする。
しっかり食べて、ぐっすり寝る。くよくよ物事を考えない。それが疲れを取るコツだなどということは、誰でも知っている。そう容易くできないからこそ、人は疲れで重くなった心身を引きずりながら生きるのだ。
それでも、医者は正論を伝えるしかない。少しでも食べ、僅かの間でも眠り、束の間思い煩(わずら)うことから自分を解いてやる。そうやって、なるべく己の心身を労わるのだ。
「前口上が長すぎましたね。さ、お上がりなさい。薬茶です」
「薬茶……ですか」
「ええ、身体を温め、血の巡りを良くします。血が上手く流れれば、小水や汗と共に疲れを外に流し出せますからね。口当たりもいいと思いますよ。どうぞ、召し上がれ」
お定は湯呑にゆっくりと口を付けた。
「失礼いたしますで」
お定が茶を飲み干すのを待っていたかのように、末音が入ってきた。
「おゑんさま、お呼びでしょうかの」
「伊野屋の先代から書状が届いたんだよ。おまえにも読んでもらおうと思ってね」
末音は表情も変えぬまま、両手で書状を受け取った。
「お定さん、この書状の中身ですが、日野光陵を伊野屋で見たかもしれないと記されておりますね。かもしれないと、そこのところが気になるのです。曖昧過ぎてね。これは、先代は直に光陵を見たわけではないということでしょうか」
「そこはわたしには何とも申し上げられないのですが……。先生もご存じのように、先代はもう多くは語れなくなっておりました。でも、三月前までは厠(かわや)にもご自分で行けたし、柔らかい物なら量は多くなくともちゃんと食べておられました。気分の良いときには庭をぶらついたりもできたのです」
つまり、三月で急に具合が悪くなったわけか。
そういうことは、ままある。
一度病で倒れると、小康を得ても突然に坂道を転がり落ちるごとく病状が悪くなり、死に至ってしまう。ままあるのだ。
先代伊野屋宗兵衛もそうだったのか。
そうだったのかもしれない。けれど、そうでなかったのかもしれない。
末音が書状を畳んだ。無言のまま、おゑんに返してくる。
「三月前」。美濃紙(みのがみ)の上質な手触りを感じながら、呟いてみた。
三月前に、光陵を見たかもしれない。
宗兵衛からの文は、そう書き出されていた。
見たかもしれない。見間違いだったかもしれない。見間違いだったと自分に言い聞かせていた。まさか、光陵が伊野屋にやってくるわけがない。目の力がめっきり衰えたから見間違ったに違いないと、自分に言い聞かせていた。
何度も何度も言い聞かせた。
けれど、あなたが来た。それで、わたしはあれが見間違いではない、現のことなのだと思い知ったのだ。
おゑんさん、光陵は生きて、江戸におります。すぐ近くに。
くれぐれも、用心なさい。
そういう意味のことが綴られている。
おゑんは、それを綴った女と目を合わせた。
「お定さん、あれこれ、お尋ねしても構いませんか」
「何なりとお訊きください。知る限りのことをお答えします。わたしは、そのために参りました」
お定が居住まいを整える。
「大旦那さまは、苦しい息の下で、どうしても先生にお伝えしたいことをお話しになりました。正直、お言葉が乱れたり、息が続かなかったりで、聞き取れなかったところも多々、ございます。ですので、わたしのできる限りで補えたらと思っております。それが、大旦那さまのご遺志でもあるはずですので」
「そうですか。では、遠慮なくお尋ねしますよ。まず、三月前、先代はどこで光陵らしき者を見かけたか、思い当たる節がござんすか」
「それが……ないのです。ただ、覚えに残っている日はありました。わたしは、その光陵というお方を知りません。ですから何とも申し上げられないのですが……大旦那さまのご様子が変だと感じた日はございました」
「三月前に」
「はい。とてもお天気の良い日でした。前日には霙(みぞれ)が降ったりしたのに、その日は朝から晴れ上がり、暖かだったのです。それで、大旦那さまが庭を歩きたいと仰って、わたし、裏庭にお連れしたんです。ええ、とても日差しの美しい日でした。大旦那さまもお喜びになっていましたねえ」
お定の眼差しがふっと緩む。過去を手繰(たぐ)っている眼だ。
「あ、ちょっと待ってくださいな。そのときは、先代はご自分で歩けたのですね」
「はい。杖はついていましたが、わたしの助けなしにしゃんと歩いてました。物言いも仰っていることも以前と変わらず、しっかりしておられましたよ。あの日も、ぐるりと庭を歩かれた後、縁側に座って白湯が欲しいと仰ったんです。お定の白湯が白湯の中で一番美味いなんて、冗談まで口にして笑っていました」
おゑんは眉を寄せた。
お定の話を聞く限り、先代の身体は恢復に向かっていたように思われる。少なくとも三月後の死を示すものは感じ取れない。
「それで、台所に行ってお白湯を用意しました。それを持っていったとき、大旦那さまの様子が明らかにおかしくて……。大旦那さま、座ったまま身を丸めておいででした。そして、杖を持つ手がぶるぶる震えていて、顔だけを上げて……ええ、まるで亀みたいに首を伸ばして、身体は縮こまって、それで、目は真っ直ぐに植込みを見ていました」
「植込み、ですか」
「はい。躑躅(つつじ)の大きな植込みです。そこをじっと見詰めて、震えておられました」
「その植込みに何かあったとか?」
お定がかぶりを振る。
「いいえ、何も……。わたしも、とっさに目を向けはしたのですが、何も見当たりませんでした。それで、大旦那さまの具合が悪くなったのだと慌てて駆け寄ったのです。そしたら、ひどく乱暴に手を振り払われて……」
そのときの痛みがぶり返したかのように、お定は右手を握り込んだ。
「そのまま、大旦那さまはお部屋に帰ってしまわれたのです」
「お一人でですか。介添えもなく?」
「はい。速くはありませんが、しっかりした足取りでした。わたし、呆然としてしまって……大旦那さまが、あんな風に他人を撥ね付けることなんて、それまで一度もありませんでしたから。ちょっとその……ぼんやりしてしまったんです。ですが、気に掛かりました」
「先代のご様子ですね」
「はい。具合が悪いなら、そう訴えられるはずです。苦しいとか、痛いとか。でも、そんなこともなくて、あれは……そう、動揺しているように見えました。だから、わたし、植込みの向こうに回ってみたんです。植込みは大きくて立派なものですが、葉が落ちて向こう側が見えなくもないのです。もしかしたら、大旦那さまは何かを見て、気持ちを乱されたのではないかと思い、確かめたかったのです」
「何かありましたか」
心が逸る。それを抑え付け、おゑんはゆるりとした口調で問うた。
「これといって何も……ただ、足跡は幾つかありました。植込みと母屋に囲まれているせいか地面の乾きが遅くて、土が柔らかいのです。そこに、足跡がついていました。それだけです。後は格別変わったことはありませんでした」
「足跡は何人分くらいありました?」
「それも、はっきりしなくて。庭ですから、奉公人も若旦那さまたちも通ります。裏木戸から入った棒手振(ぼてふ)りが台所に寄るために通ることもあります。数人の足跡があっても不思議ではないです」
確かにその通りだ。しかし、棒手振りや奉公人を見て、宗兵衛が驚くはずもない。
「そこに、光陵がいたのかねえ」
と、これは末音に向けて呟く。
「そうとしか考えられませぬの……とまでは言いませぬが、その見込みはたんとありましょうの。あの伊野屋さんがお気持ちを乱して震えるなど、ちょっとやそっとじゃありませぬからのう」
(この章、続く)












