もう妻としての世界には立ち返れない
全く、紐育(ニューヨーク)の人々から受けた素晴らしい歓迎は、私は本当にこんな歓迎を受ける価値があるかと自分を反省せずにはいられない程のものであった。
先ず何はともあれ、ニッカボッカホテルというのに旅装を解いた。
丁度アンナ・パブロバも其頃私と前後して米国へ渡り、シカゴのオペラハウスで、踊っていた頃で、私もホテルに落ち着くひまもなくシカゴへ出かけ、パヴロヴァ達と同じカンパニーに出ることになった。
三浦はニュー・ヘヴンのエール大学に籍を置く筈になっていたが、私一人では心細いので、当方支配人(マネジャー)格に私についていて貰うことになった。しかしこれは三浦にとっては可成(かなり)憂鬱なことには違いないと、私も察しないではなかった。とにかくも研究にいそしんでいる学徒を、歌姫の支配人として傍に引きつけて置くということは、私はともあれ三浦にとっては、あまり気に入った仕事でないのは勿論、その間、研究も放擲(ほうてき)しなければならない。
自分はどうにかやって行きますからと私の方からいっても、三浦としては、私を、人の中へ一人放り出して置くことは夫の立場として限りなく不安心でたまらない。しかも、私にはもり上るような盛名と喝采としかもそれにともなういろいろな誘惑さえもあるといって大切な研究を投げ打って、三浦政太郎が女房の鞄持ちにはなっていられない。しかももう妻としての世界に立ち返るには、あまりにも私自身の地位は、確固たるものになり過ぎてしまった。
そこに三浦の深い懊悩はあるのだった。三浦はますます無口になって行った。
芸術という武器を神様から与えられ
シカゴの一ヶ月間は喝采に明け、喝采にくれたような、私にも意外と思う程なデビュー振りであった。オペラハウスのカンパニニという有名な指揮者は、私の「お蝶夫人」に、「インコパレーブル(世界無比)」という讃評を与えてくれた。
もうその頃は、『お蝶夫人』に対しても、自分流の解決や、また英国時代の手なれた動きとは違った新しいしぐさなどを考えて、私自身の独自の『お蝶夫人』を、苦心して演出する程の、舞台の落ち着きも出来て、自分としては、ますますこの歌劇(オペラ)に対して、深いより一層の愛着も覚え、また身内に油の乗り切って来る感じだったのだ。
三浦も、これではならぬ、これではならぬといい乍ら、ずるずると私について半年あまり、米国の各地を、一緒に歩くのだった。
私は今、自分の成功を語るに急であって、私の行く処、何等の阻害するものもなかったかというと、決してそうではない。しかし、自分に対して辛かった人の心持などを、私は苦に病んだり、いつ迄も根に持って思いなやむなどということは、私には出来ない性質だった。私は行く所の同胞たちに愛せられ、助けられ、喜ばれ、感謝されていたと同時に、一部の人々からは、いろいろの迫害を受けていたことも、またおおうことのできない事実であった。
三浦が、恰(あたか)も支配人の如く女房の後を追って歩いている。一人の立派な学徒をああいう風になり下がらしたのは、取りも直さず私の責任である。日本の如く夫唱婦随的の立場からいけば、いうまでもなく、あれは国辱問題だなどとさわぎ立てる在留邦人も、ない訳ではなかった。だが、これに対して、私は何を説明する要があるだろうか。それは全く夫婦の間の愛情の問題であり、理解の問題であるのだから何れも傍(わき)の人達に対しては、説明のしようがないのである。
私の態度、私の服装、そういうものも、随分偏狭な人達の間では非難されていることも知っていた。けれどもこれもまた考え方の相違である。日本というものを、今よりも、もっともっと日本に対して無智であった外国人に理解させるには、あれより外には仕方がなかったのである。しかもその人達は、口でばかりやかましくいっても、一体誰が一人でもこの困難な仕事をなしとげたであろうか。幸い私には芸術という武器を神様から与えられている。私はそういう非難には目を閉じて黙々として自分の使命と目的に向って、邁進しなければならぬと、悲しく心のくず折れる時には、さらに新しい誓を我と我が心に立てるのだった。