マダムの声は卵から出るんでしょう

メトロポリタン大歌劇場の出演は、明けて一九一五年の春だった。

その時、私は初めて、エンリコ・カルーソウに逢った。カルーソウは丁度死ぬ二三年前だったから、肥ってたくましい体格をしていたが何となく顔色も青白く、声の調子にも衰えが見えて、影の薄さが感じられた。私の『バタフライ』の上演に対して、カルーソウは『パリアッテ』を出していた。

私は其頃、毎日欠かさず生卵を一日に六つづつ食べる習慣だったので、米国へ渡って以来自分の身のまわりの世話を頼んでいるミセス、マルソンは、毎朝欠かさず私の部屋へ卵を運んで来乍らいうのであった。

「ねえ、マダム。マダムの声は卵から出るんでしょうね、だけどもカルーソウの声は一体何から出ると御思いになります?」

「ほほ、さあ、何でしょうね。」

「私は聞いたんですけども、カルーソウは朝御飯は召し上らないで、二時に、それはもうどっさりスパゲッチを召し上るんですってね。それで、夜オペラがすんで夜食を召し上る迄何も上らないだそうですよ。」

「へえ、じゃあの人の声はスパゲッチから出るっていうの」

「そうなんですよ、マダム。貴女のお声が生卵から出るようにね。ほほほ」

其頃は三浦はエール大学へいよいよ入ることに決心して一人ニュー・ヘヴンへ行っていたから、私の話相手はこの陽気なミセス・マルソンだった。

「マダムは新聞記者にとんでもないことをおっしゃったっていうじゃありませんか。」

「ああ、あの街の女(スプリング・チキン)の一件。」

「そうですよ。本当にマダムも無邪気だからいいようなものの、困りますわね」

「だって、それはマルソン。貴女がそういう俗語(スラング)を少し私に教えとかないから悪いのよ。」

私にはまだ大きな野心がある

街の女(スプリング・チキン)の一件というのはこうである。私が米国へついた時にメトロポリタンの支配人ラビノフは私に教えて呉れた。

「マダム、貴女が世界一流の歌手として、この米国でも人気を得たいのなら、無論芸術は芸術ですけれど、人から愛されるということが第一ですね。愛敬(あいきょう)、人を引きつけずには置かぬ魅力というものを第一に体得するんです。それが大切な処世法ですよ。一体日本人というのは無表情で困りますが、貴女はその殻を破らなければいけませんね。そしてお上品にばかりかまえていても駄目です。極端ないい方ですが街の女(スプリング・チキン)式の愛らしさも必要です。」

そういわれたのだが、さてその街の女(スプリング・チキン)が解らない、解らないままに私は新聞記者に多勢とりまかれた時に、あろうことか私はこれから街の女(スプリング・チキン)になりますといってしまったのである。皆はどっと笑った。私は何がおかしいのか解らずキョトンとしていた。

ミセス・マルソンはその時のことをいうのだ。

「でも新聞記者達は、あれで一層一層貴女が好きになったんですよ。マダム。それに貴女の失策というのは、不思議ですねどんな失策でも美しく可愛らしく見えるんですもの」

こうして私はますます米国の人達には愛されて行ったが、また一方には私の性格は日本の一部の人達とは全く相容れぬものをも、段々形づくって行くのだった。

其後二三年たってカルーソウがブルックリンのオペラハウスで血を吐いて死んだことを聞いた。私は暗然としてこの偉大な歌手の死に悼まずにはいられなかった。カルーソウは歌い乍ら、コーラスの娘からハンカチを借りて真赤な血をおさえ、それでも足りずに、もう一枚ハンカチを借りて、それも真赤に染めたまま舞台の上にたおれたのだった。

当時は欧州の戦雲に追われて、数多(あまた)の芸術家達が、雲のように米国、に集ってきていた。ガリクルチが初めてリゴレットを持ってシカゴにデビュウしたのも其頃だった。

シュウマン・ハインク、マダム・メルバ、ガリクルチ、ムラトール、ゼナテルロ、そうした、日本にいる頃は夢にだに思っても見なかった一流の歌手達と、私は後から後からと舞台を共にすることが出来たのであった。

物質的にも恵まれて、これが自分の全盛の時代なのであろうかと思って見ることもあったが、いやいや私にはまだ大きな野心が一つ残されている。それはいう迄もなく欧州の天地で成功することだ。私は歌の本場伊太利(イタリア)に行って、自分の芸術の真価を問うて見たかったのだ。