外交官夫人の冷たい仕打ち



欧州大戦の終った時、丁度私はワシントンにいた。不思議な縁というのか、シンガポールで散々御世話になった廣田弘毅氏は参事官としてワシントンに駐在していられた。何か素敵なことを平和克復祭にはやろうじゃないかということになって、日本の富士山にかたどった大きな山車を作り、その山車の上に私が美々しい日本の着物を着て乗り君が代を歌ってワシントンの市中を練り歩いたものである。市中は文字通り湧き返るさわぎだった。

其夜は日本大使館のレセプションに出席して、私は二千人からの人達に握手をさせられたのであった。翌日は手がはれ上り大きな痣が出来てしばらく右手が自由に動かなかった。これなどはもっとも米国時代に於ける楽しい思出の一つである。歴代の大統領ウィルソン、ハーディング、クーリッジなどの前で演奏もした。私が今も忘れないのはウィルソン大統領に歌を御聞かせした時のことである。

これはある外交官夫人とだけ申し上げておこう。其時は、日本の大使館へ大統領を御招待して、その余興として私の歌を御聞かせすることに手筈が定っていた。いよいよ明日が其日という前日、私はその外交官夫人の下に行って、明日は先ず歌を歌わして頂く方に米国の国歌を大統領に御聞かせしたいからというと、もっての外です、国歌などの必要はございませんという冷たい御返事。それでは私の介添えとしてフランス人の弟子のエリザをつれてまいってよろしゅうございますかというとそれもなりません。歌を御歌いになさるのは貴女御一人ですよというのだった。夫人は語をついで

「申しあげときますけどもね。貴女には誰もいない部屋で歌って頂くんですよ」

「え? 誰もいない部屋で? そうしますと、大統領の御前ではないんですか?」

「否、貴女の御姿が大統領に見えるのは失礼なんです。大統領はあちらのお部屋、そして一間置いて次ぎの間には御つきの方達がいらっしゃいますから貴女は真中の誰もいない部屋で歌って頂くんです」

私は此(この)言葉にはひどい侮辱を感じたのであった。

やがて其日になって私はかまわずエリザをつれて出かけると、当の夫人は冷やかに私を迎えられたのであった。

いよいよ歌が初まって、どちらの部屋に大統領がいられるのかも解らず、またどの方が大統領なのか紹介もされず。私はかまわずエリザを随えて歌っていると、やがて私の後に小柄の男の方が立っているように感じたが、そのまま御尻を向けて歌い終ると、いきなり、

「マダム・ミウラ。大変立派でしたよ」

と私の背中で声がして、見知らぬ人が、つと小腰をかがめて私の手に接吻されたのだった。誰かが大統領ですよと注意してくれた人があったので、私は驚きのあまり折角稽古して行ったフランス語も喉へつまって出ず、忙(あわ)ててエリザへ救いを求めるさわぎだった。あろうことか私は大統領閣下へ御尻を向けて歌っていたのである。

「どうぞマダム。国家を一つ歌って下さい」

と今度は向うからおっしゃるのである。私の声は感激に慄(ふる)えて、まるで私を冷めたくいじめているような外交官夫人の振舞いなどはこの感激の前には何でもないと思うのだった。故国の人からはと角冷たく扱われ乍ら、しかし私の心は温かく満足であった。

当時の陸軍大臣、ニュートン・デイ・ベーカー夫人もまた私を可愛がって下すった一人だった。当時対戦の負傷者達を慰めるために歌を歌ってあげたいと思い、その伴奏を矢張(やっぱり)日本の某外交官夫人がピアノに堪能であると知って御願いした所、私共はそういうことは出来兼ねますと同じように冷たい御返事だった。それを話すとベーカー夫人は喜んで引き受けて下すったのであった。そればっかりかワシントン滞在中は官舎へ私を泊めて下すって、お嬢さんの可愛いベギーさんは、まるで侍女のように私に仕えて下さるのであった。

日本の外交官の夫人達の心理というものを、私は未だによく解らないのである。