「お蝶夫人」の作者プチニと会う

十一

一九二〇年、私はいよいよ米国を発って憧れていた伊太利へ行くことになった。此時は三浦の研究も一段落ついていたので、一緒に行きたいというのであった。伊太利はルサルデという同興師との契約で、一年に百回という約束だった。歌の本場で、自分の価値を評価して貰うという年来の希望が達せられるので、私はうれしくって仕方がない。ペンヂャミン・ヂリという伊太利人のテナーが私の相手役としてピンケルトンを演じてくれることになったが、これはとてもいい声の持主で、私は何から何迄満足であった。全くペンヂャミン・ヂリは今迄のどのピンケルトンよりも私に気に入ったピンケルトンだった。

一九二一年、ローマの帝室劇場で歌った時、『お蝶夫人』の作者プチニが聞きに来てくれた。

その時楽屋へ訪れたプチニは私の手をしっかり握っていうのだった。

「私はすっかり感激しました。マダム・タマキのように優しい、愛らしい、本当に私の考えていたお蝶夫人そのままの、演出をしてくれた人は初めてです。」

「有難うございます。御賞(おほ)めに興(あずか)って本当にうれしゅうございます。」

「舞台がすんだら、私のヴィラに来てくれませんか。マダム・プチニも貴女を待っています。」

その招待は私にとって全く思いがけない喜びだった。間もなくプチニは自動車を迎えによこしてくれたので、トレデ・ラーゴというローマから可成(かなり)離れたプチニのヴィラへ行った。湖水の岸の静かな田舎家だった。プチニはプチニ夫人と一緒に喜んで私を案内してくれた。

「この部屋のこのピアノで、十五年前に『お蝶夫人』を作曲したんですよ。」

私は深い感慨に打たれてそのピアノを眺めた。部屋には、日本風の調度などがあって、非常にプチニが東洋に憧れの心を抱いているのが察しられた。プチニはいわば私の再生の恩人といってもいいのだ。私は『お蝶夫人』によって自分の地位を世界に確保したのだから。そう思うと、プチニに対して父親のようななつかしさを感じずにはいられなかった。

「今、『ワーランドー』という東洋のオペラを作っているのです。マダム・タマキ、貴女のためにも何か新しいオペラを考えましょうね」

「先生。本当ですか、まあどんなにうれしいでしょう。」

「本当ですとも。御約束しましょう。今の『ワーランドー』にも何か東洋的なリズムがほしいのです。歌って下さいませんか」

私は喜んで三十三間堂の木やりの歌を歌った。ヨーイヨーイ、ヨーイトナアというあのメロディが気に入って何度も何度も私に歌わせるのだった。かと思うとプチニはすぐピアノにかがみこんでそれを作曲中の『ワーランドー』の譜の中へ書き加えるのだった。

その夜、食事の最中、プチニは激しい咳き込み方で、見ていても気の毒な程の苦しみようだった。マダム・プチニは私の耳にささやいて咽喉癌で、プチニの余命はもう幾許もないのだと聞かされた時、私は驚きと悲しみに、病室の方へ去って行くプチニの淋しい姿を眺め乍ら、知らず知らず嗚咽がこみ上げて来るのだった。これがプチニに逢った最初で最後で、プチニは、それから二年たって亡くなられた。

〈6〉につづく 


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