私達夫婦の一番痛い所
伊太利(イタリア)の演奏も成功裡に終ると、私は三浦とはまたもやモンテカルロと契約ができて出かけることになった。
モンテカルロにつくと三浦は、もう俺達はどうしても別々にならなければならないねと、思い切ったようにいい出すのだった。私は黙って三浦の顔を見ているばかりであった。返事はあまりにも明白で答える余地がなかったのだ。
「仕方がないさ。俺は一度英国へ帰ってそれから日本へ行くよ。お前もなるべく早く外国生活を切り上げて日本へ帰って来るんだね」
「けれども日本が快く私を迎えてくれるでしょうか」
「それは解らないさ。」
「こんな苦労して外国で築きあげた地位迄すてて、日本へ帰ったってその何百分の一の歓迎が、私を待っていてくれるか、こりゃ本当に考えものね」
「じゃお前はいつ迄もそんなエトランゼでいるつもりか?」
「だって私の一生は『お蝶夫人』に捧げた一生ですもの」
「俺が、自分の研究を何もかもふりすてて、只一個の幸福な夫になり切れる人間だったらね、こう迄苦しみもしまいよ。」
「ああもうその話は止(よ)しにしましょうね」
それは私達夫婦の一番痛い所であった。
私がモンテカルロから、カイロへと演奏の旅に上ると同時に、三浦は一人淋しくロンドンへ発って行った。
カイロでは其時(そのとき)同行した私の友達の伊太利人のオペラシンガーが、サルタンに非常に愛せられて、四十万リラの金や、素晴らしいダイヤモンドなどを贈られて大変な評判になった。
ある夜などは、サルタンーーサルタンといえばカイロでは王と崇められる人であるーーと私は同じボックスで彼女の歌を聞き、散々愛人のことをのろけられたりもしたものだった。
ところが間もなくそのサルタンは、ギリシア人の彼のマダムから嫉妬のあまりピストルで射殺されてしまった。危ないところであったと、後で聞いて肝を冷やしたことなどもあった。
エジプトに行っている間に、私の次ぎの契約は南米へ行くことになった。
私はもう其頃世界の一人旅に少しも心細さなど感じていなかった。只歌に生き、歌を友として、私ははるばるとサンパウロにまでもやって来た。其頃すでに日本に帰っていた三浦から、直ちに帰国するように度々手紙が来ていたので、私もいよいよ日本の土をふんで見ようかなと段々思い初めるようになった。
丁度前にシカゴで知り合ったフランケッティがローサライザの伴奏者(マエストロ)として、南米へ来合わせていたので、私はフランケッティに、私の伴奏者として日本に行かないかと、すすめて見たのだった。
フランケッティは喜んでそれを承諾してくれたばかりか、私のために『浪子さん』を作曲したいとさえいってくれるのだった。
後になってフランケッティのことが、うるさく日本で問題になるなどとは夢にも思わないから、いい伴奏者を得たことが、何より其時はうれしかった。