「マサタロウシス。」
ホノルルから、またアメリカへ渡った頃、フランケッティの『浪子さん』のオペラが完成したので、私はそのまま三浦との約束ではあったけれど、この新作『浪子さん』をもって、アメリカ伊太利と演奏旅行を続けたのであった。
其頃、私は三浦が博士になったということを知った。三浦の身辺に何か女性の噂さえ聞いたのも其頃のことである。噂はどの程度であるか知らないが、むしろ私はそういう噂に対して、喜びこそすれ私の心は何等の傷みをも感じはしないのである。三浦の淋しさは十分解っていたから、どんな方法ででも三浦が慰められるなら、私はこれにまさる喜びはないと思っていた。
とにかく博士号という約束の希望が達せられたからには、私も約束通り日本へ帰るにしようことと、伊太利アメリカを打ちあげて、再びホノルルまでやって来た時だった。
其日(そのひ)ホノルルで知り合った日本の医者が、
「どうです。今日は盲腸炎の患者を手術するんですが、御覧になりませんか。」
「まあ、私はそんなことにあまり興味はないんですが。」
「いや、しかし一度は後学のために見といてもいいですよ。何も経験ですからね」
「そうですね。それでは先生のお手並みを拝見する意味で……」
私が、どういう訳でそんな気になったのか後になっていくら考えて見ても解らないのだが、とにかくその手術を見学することになって、手術室へ連れて行かれた。
案の條(じょう)、手術が始まってから十分も経たないうちに私は気絶してしまったのである。
其日、気分の悪い頭をおさえてホテルへ帰って来ると一通の電報が私を待っている。
「マサタロウシス。」
私は我が目を疑わずにはいられなかった。マサタロウシス、すつうと足許から力のぬけてゆく感じと共に、私はもう一度自分の目の前の暗くなって行くのを感じた。
三浦は急性腹膜炎で須臾(しゅゆ)の間に逝ってしまったのである。しかも三浦の亡くなった同じ日に私は、何の因縁からか他人の盲腸炎の手術に立ち合ったりしているのである。
さて、何はともあれ日本へ帰らなければならないという気持と、どうしても今、日本へ帰れないという気持と、私の心は激しい混乱に落ちてしまった。が、私はどうしても日本へ帰れない、三浦の死んでしまったという日本へ私はどうして帰れるだろうか。それはいわば卑劣な心持かも知れなかった。
私は何を怖れていたのだろう。いや、私は何も怖れていはしない。私は其悲しみに堪えられないのだ。芸術が大切か夫が大切か、私の心は臆病にも、今も尚、その二つは計りにかけて見ることはできないのである。
が、妻の手にも抱かれず、帰らぬ妻を待って逝った人のことは、全く私の心にとって、非常なる痛恨の種であった。
私はそのまま日本に帰らず、再び米国へ行ってしまったのである。この心を人は何と思おうと思え。私は三浦を愛するが故に、日本には帰れなかったのである。
最早、歌こそは私の生命であるとはっきりいい切れる私であった。傷心を抱き乍らも、歌あるが故にこそ私は幸福であった。