私はまだ舞台をすてることは出来ません

丁度其年も秋近くなって次回の契約地、ホノルルとの間に交渉が成立していたし、私は飽くまでも反対をおし切って行く決心をつけていた。すでにホノルルから二千弗(ドル)のチェックも送って来ている。私が其後九州への演奏旅行に出かけている間に、三浦は独断で、私の病気の趣きを伝えて、契約破棄をホノルルへいってやったのである。

私は何も知らずに東京へ帰って来ると、伊太利大使館から抗議が来ている。一端約束しておいて怪(け)しからんじゃないかというのである。

「これは一体どうしたんですの」

と私が血相変えて三浦につめよると、

「俺は断ったのだ。」

「私の名前で断ったんですね。貴方はどうして私の承知しないことをなすったんですか。」

そういう場合に日本の良人(おっと)達のいう言葉は決まっているのである。

「はっきり宣言しますけれど、とにかく私はまだ舞台をすてることは出来ません。貴方も勉強して今度私の帰る迄には博士になっていて下さいな。とにかく御約束しましょう。貴方が博士になったら、私もそれを機会に帰って来るということに。ね、そうして下さい。」

三浦はいよいよ私の決心が固いと知ると親族会議を開いて私の出発を阻止しようとする。私もそれに対抗して出発を間近に控えた十月の或夜、帝国ホテルに私を後援して下さる知名の士百三十名を招いて、私が再渡米することの是非を聞いたのだった。

その席上で、鳩山春子夫人だけが私に日本に止まることを主張されたのみで、澁澤さん、大倉さん、浅野總一郎さんなどは、私は再び外国に行って、現在の地位を守るべきだということを主張して下さったのであった。

三浦の憂鬱な気持も私にはよく解る。その気持を考えると私は悲しくさえなるのだ。けれどもまた私自身の気持もやむにやまれないものとして解っては貰えないものであろうか。カルーソウのように舞台に果てることを歌手として誰しも望まぬものはないであろう。そして、オペラは、『お蝶夫人』は、それこそ私の生命なのだ。

結極(けっきょく)、私は十月、ホノルルへ出発することになった。ホノルルでフランケッティを伴奏者から解放すべきことなどという約束づきで、渋々三浦達は納得してくれたのであった。

貴方が博士になる迄、それが私と三浦との別離に交された固い約束だった。三浦の博士論文は九州の帝大に出されてあったので、私は九州へ行った時も、そこの先生達によく頼んで来たものである。

これが、私と三浦との最後の別れになるなどとは、無論私は思いもしなかったのである。