情熱的な伊太利男、フランケッティ

十二

追われるようにシンガポールへ去ってから丁度八年振りに、大正十一年の桜の咲く頃、私は横浜に上陸した。最初の横浜市長のレセプションで矢張り故国の人々も、故国の山河と同じように、温かく私を迎えてくれるのを知って、私のうれしさはいいようもなかったのである。

日本でグランド・オペラを上演することは不可能なので、それは何よりも私に取っては残念であったが、毎日、毎夜の引きも切らぬ演奏会はくたくたに私を疲らせ乍らも、私の心は十分に満足していたのである。

めっきり年老いた父や母としばらくでも居を共にすることができるのは、不幸な子であった私としても望外の喜びである。

「もう外国へ行かないでおくれ環。政太郎さんも気の毒だから、どうぞこのまま日本にいておくれ。」

母はそういって心配そうな目を私に向けるのである。同じようなことを私にいっている政太郎の目、そうした目を、私の周囲に一つでも多く感ずる毎に、私の心は重くふさがれて行くのだった。きっと故国へ帰ればこの問題が待っているのに違いない。またしても私達夫婦の上にのしかかって来るこの黒い影。しかも今度は一層悪いことには、フランケッティというもう一つの影が其間に介在しているのだ。

無論フランケッティは私にとって此上なき芸術の友だ。私を理解し私のよき芸術上の相談相手となってくれることは、それは三浦以上であったかも知れない。時には外国の習慣で手を組んで歩くということもある。フランケッティもまた伊太利人だったから、音楽に対しても情熱的な男だった。それが私とは一脈相通ずる所だから、私達は非常に親密な友情を持ち合いはしたが、私は再びここでまたくり返したいのだ。私はその二人の友情について何を説明する必要があるのだろうか。そしてそれは三浦と私との結婚生活と同じように、説明したとしても、どうにもならない他人には解らない私達の問題ではないか。

が、日本にとどまれ、家庭に帰れという声は私に対して、まるで一つの世論の如くおしよせて来たのである。これは全く私にとって予期しないことだった。日本の世論が、それだけ私に対して関心を持っていてくれるのは有難いようでもあり、また事実私にとっては甚だ迷惑なことでもあった。「マダム、貴女は関まわず、御自分の道にお進みになった方が、いいんじゃないですか。貴女は世界のマダム・ミウラとしての位置をおすてになるんですか。このグランドオペラさえない東京に。グランド・オペラのないということはほとんど貴女の生命がないといってもいいことじゃありませんか。」

フランケッティも私のなやみを見るに見兼ねてそう忠告してくれるのであった。

止まれ、否、行く、そうした口論は毎日のように政太郎との間に絶えない有様だった。