ふと忍び寄る心の淋しさ

一九三二年、私は再び日本に向け、長いシベリヤの汽車にゆられているのだった。

今度こそは自分の心もようやくに落ちついて、静かに三浦の墓前にぬかづくことも出来るような気がするのだった。急に年老いたように思える母のことも、私の気にかかる一つだった。父も亡く、三浦も亡き後、母を喜ばせ、慰め、楽しませることは、私にたった一つ残された愛情の排(は)け口のようにも思われるのだ。急に母や、生まれ故郷の東京がなつかしくなって来たのも、本当の心の髄からのコスモポリタンのように、人にも思われ、自分も思いこんで来た私には、甚だ不思議な現象のように感じられる。

だが、コスモポリタンの淋しさは、所が変り人間が変っても、通ずる人情は変わらず、まして歌の心は萬人の胸に共通の情感を捲き起すと、その楽しさに一心こめている間は、淋しさを淋しさと知らずに過ごしてしまうのであろうけれど、ふと、忍びよるようの心の底にその淋しさを、あらわにそれと感じ始めたら最後、実にやるせなく、自分は世界のどこの人情の中にも生きられる人だと思いながら、そのやるせない思いは、常人にはとても計り知られぬ深さのものではないのだろうか。

やがて其日も、最後に日本へ来る迄、私は時々そういう思いにかりたてられることが多くなったのだ。そして、来る度数が重なれば重なる程に、日本は温い国のように私に感じられて来るのだった。

グランド・オペラのないことも此頃ではそう苦痛にはならなくなった。私は東京にそれを建設することに、至上の楽しみを見出すに違いない。

女の身には大き過ぎる一つの事業をなしとげた

日本の土をふんで、初めて静岡の三浦の眠る墓前に額(ぬかづ)いた時、私は実に複雑な感情のためにせぐり来る涙を止めることができなかった。恐らく此心(このこころ)を、世間の人のように、勝手だとは、三浦は思っては呉れないであろう。三浦は私の心を解っていてくれる。そして、昔のように、莞爾(かんじ)として私を許してくれるに違いない。

「お前はいつ迄も大きな子供だね。もう少し大人にならなければいけないよ。俺はもう安心して眠っているのだ。俺をもうさわがせないでくれ」

三浦の墓石はそういっているように私は思われる。

「貴方は許して下さいますね。貴方は、一生私の歌と戦って御暮らしなすったようなものね。貴方のライヴァルは、私の歌だったんです。私の歌が残ってしまって、貴方は死んでしまいなすった。」

私の心は悲しみに洗われ、三浦への追慕はそのまま歌となって私の口から流れ出すのだった。

手記が掲載された『婦人公論』昭和11年12月号

いわば自分の女としての生活の全部、妻とか家族とかそうしたものを、私はついに私の生活から追い出してしまったのだ。三浦には本当に気の毒だった。母にも父にも。

子としても妻としても私は本当に不満足な人間だったかも知れないが、そうしたあらゆるものを犠牲にしても、女の身としては大き過ぎる他の一つの事業をなしとげたということは誰も認め、信じてくれるであろう。そして、私はそれに満足し、幸福を感じているのだ。

が、まだまだ私の使命は終ったのだとは思っていない。

ああ、私はどんなに歌を愛していることだろう。今度の帰朝に、私は長い間の望みがかなって、日本でオペラ『お蝶婦人(マダム・バタフライ)』を上演することができた。今もまた『カルメン』上演の準備で忙殺されている。

私は、自分のいとし子を育てるように、熱情をかたむけて、これから日本のオペラを育てたいと思っている。

久しぶりに落ちついて味わう日本の秋は、空の美しさといい、風のさわやかさといい、世界のどこの国で味わった秋よりも、私の心にしみ渡るのだ。伊太利に住まおうと一時は心に定めたこともあった。其時はこんな日本の美しさが解らなかったのかも知れない。

「母さん。本当に母さんが丈夫でいて下すって、私はどんなにうれしいか解らないのよ」

なつかしい母の微笑は恰(あたか)も美しい音楽のように私には楽しいのだった。(おわり)


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