竹は女の樹だ。細く、風に容易くしなってしまう。けれど、容易く折れはしない――。江戸の片隅の竹林を背負った家で、「闇医者」として子堕しを行うおゑん。彼女の許に、複雑な事情を抱えた女たちがやってくる。

 

 

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 卒中。やはり、そうきたか。
「倒れた? まぁ、それはいけませんね。どんなご様子なんです。お粥ぐらいなら食べられるのですか。ご自分で飲み込めますか」
 お秀が目を伏せ、かぶりを振った。
「重湯なら三、四匙ぐらいは口にします。水も何とか、本当に何とか飲めます。ゆっくりと口に入れてあげればですが。でも、形のあるものは全く飲み込めなくて、しゃべれなくて……見ていて、悲しくなります」
 口からほとんど食べられないとすると、長くはない。何かを食べ、飲み、人は命を保っていくのだ。その道が絶たれたとすれば……そう、もたないだろう。身体が兵糧攻めに遭っているようなものだ。いずれ、三朝屋政五郎の寿命は尽きる。それなのに……。
 おゑんはお秀の、やや俯き加減の顔を窺う。
 幸せだと、この人は言い切った。
 父親の死が間近だと気が付いていないわけがない。ほとんど食べられない、飲むことさえ覚束(おぼつか)ない病人を目の当たりにしているのだ。
 なのに、幸せ? お礼を言いにきた?
 お秀が顔を上げる。
「先生、あたしのことを薄情な娘だと思っておられますか」
 眼差しにも口調にも険しさが潜む。
「でも、仕方ないんです。あたし、おとっつぁんのこと好きじゃない……いえ、ずっと嫌で嫌でたまらなかったんですよ」
 おゑんは驚きも頷きもしなかった。同意もしないけれど拒みもしない。ただ、黙って耳を傾ける。決壊を感じたのだ。お秀の中で堰(せき)が崩れる。情動がほとばしる。
「昔から嫌いでした。憎んでいたと言ってもいいぐらい。だから、おとっつぁんが倒れたときも、そんなに狼狽えはしませんでした。おとっつぁんなんて、どうなってもいいって思ったぐらいです。もちろん、外には出しませんでしたけど」
 そこで、ふっと口調が凪ぐ。
「先生、もしかして、あたしの気持ちをご存じでしたか」
「いえ。でも、お秀さんのさっきの物言いには引っ掛かるものがありましたね」
「あたしの?」
「ええ、お秀さん、言ったじゃないですか。『万事、上手く収まりました』って。そこに、何だか……うーん、何ていうのですかねえ、企みの臭いを嗅いだんですよ。そうしたら五年前の光景がちょいと違って見えてきました」
 今度は、お秀が眉を寄せた。唇が動いたようだったが、声は零れてこない。艶のある紅の引かれた唇をちらりと見やり、おゑんは続けた。
「父親の誤解に苦しんで、途方に暮れていた娘。あたしは、お秀さんのことをずっとそう思っていました」
「そうですよ。その通りです。あたしは、まだ生娘でした。なのに、おとっつぁんたら子を孕んだなんて思い込んで……あのとき、あたし、本気で死にたいと思ってました。先生、企みってどういう意味です。あたしが何か企んでいたと仰るんですか。そんなことあるわけないでしょ。あたしは、まだ十四だったんですよ」
 お秀の声が上ずる。情はまだうねっているようだ。
「どうして、そんな思い違いをしたんでしょうかねえ」
「え?」
「三朝屋さん、なぜ、お秀さんが子を孕んだと思い込んだんでしょうか」
「それは……」
 お秀が顎を上げる。目付きがさらに鋭く、険しくなる。
「そういう人だからです。ええ、おとっつぁんは、そういう人なんですよ、先生。思い込みが激しくて、自分の意向に沿わない者を許せなくて、力尽くでも従わせようとする。あたし、従順な娘じゃありませんでした。逆らうことも多かったんです。おとっつぁん、それが気に入らなかったんじゃないでしょうか。それで、あたしを苛むために、ふしだらだと罵るために、あんなことを仕組んだんだと、あたしは思ってます」
「おや、お秀さんもなかなかに思い込みが激しいじゃありませんか。そこらへんは、おとっつぁん譲りなんですかねえ」
 おゑんはわざと軽く笑い、肩を竦めた。
「先生、あたしをからかっているんですか」
「いいえ、他人をからかって喜ぶような捩じくれ方はしていないつもりです。どうして、お秀さんが嘘を吐くのか。そこのところは気になってますけどねえ」
「嘘? あたしが?」
 お秀も笑う。さっきの若さに満ちた生き生きとした笑みではない。そんなものは微塵も感じられなかった。よく似た笑みを時折、吉原で見かける。男を誘い、絡め取る手練手管に長けた女たち、場末の女郎たちがふっと浮かべる笑みだ。
 女たちは唇の端を僅かに歪めた薄ら笑いの下に、本音も真実も覆い隠してしまう。
「お秀さん、あたしは割にしつこい性質でしてね、気になることがあれば、できる限り調べてみたくなっちまうんですよ。それで、気になったこと……三朝屋政五郎はどうして娘に子ができたと思い込んだのかってところを、あたしなりに調べてみようかと思いましてね。あ、これは五年前のことでござんすよ」
 お秀の顔から笑みが退(ひ)いていく。そうすると、何の表情もないのっぺりした面が現れた。
「とはいえ、あたしなんかが嗅ぎ回ってもたいしたことはわかりませんでした。ああいうのは、やはりその道に通じた者でないと難しいんでしょうね。きっと、コツとかあるんでしょう。まっ、あたしも暇がなくて、中途で切り上げちまいましたからね。それでも、三朝屋がかっちりとした商いの店で、評判も上々だというぐらいのことは掴めましたよ。そして、三朝屋政五郎のことを悪く言う者はいないってこともね。三朝屋さんが文句のつけようのない善人とまでは言わないけれど、真面目で誠があり、汁椀一杯ほどの小買でも嫌な顔一つせず応じてくれたとの話も聞きました」
 お秀は何も言わない。無表情のまま座っている。
「そういうお方が娘の言い分もろくに聞かず、自分の思い込みだけで、子を堕ろさせようとしますかね。あたしは、どうにも納得がいかなくてねえ、この辺りが」
 胸に手を添える。
「むずむずはしていたんです。でもまぁ、誰が騙されたわけでも殺されたわけでもありませんからね。あえて、むずむずから目を逸らして、この一件は忘れることにしました。何にでも首を突っ込むなと、周りからしょっちゅう叱られてもいましたからね。それで、忘れてましたよ。三朝屋さんのこともお秀さんのことも、きれいに忘れていた。今日、お秀さんが、ここにお見えにならなかったら、忘れたままだったでしょうよ」
 もしかしたら、味噌屋の前を通ったとき、香ばしい味噌の匂いを嗅いだとき、ふっと記憶の底から浮かび上がってきたかもしれない。けれどそれは、泡沫のように容易く弾け、跡形もなく消えてしまっただろう。

(この章、続く)

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