求められていたのは「開戦できる」という結論

ではなぜ、その4ヵ月後の12月、開戦に踏み切ったのか。10月に組閣された東條英機内閣では当初、開戦をめぐる議論はまったくの平行線をたどっていた。最終的な争点はやはり石油の確保に集約されていく。そして11月初頭に提出されたあるデータによって、最終的な決着がついてしまうのだ。

そのデータとは、開戦後の石油保有量を予測した数字だった。要は、「開戦しても石油が確保できる」という根拠である。この数字を提出したのは、当時の企画院総裁・鈴木貞一氏。企画院とは、各省庁や陸海軍の間を調整し、総合的に国策を検討するために発足した機関であるが、実際は戦争のための物資動員計画本部といった役割を担っていた。

鈴木貞一氏(『中央公論』昭和14年1月号より)

『昭和16年夏の敗戦』著者・猪瀬直樹氏は直接この鈴木氏にインタビューを行っている。

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「とにかく、僕は憂鬱だったんだよ。やるかやらんかといえば、もうやることに決まっていたようなものだった。やるためにつじつまを合わせるようになっていたんだ」

――「やる」「やらん」ともめている時に、やる気がない人が、なぜ「やれる」という数字を出したのか。

「企画院総裁としては数字を出さなければならん」

――「客観的」でない数字でもか。

「企画院はただデータを出して、物的資源はこのような状態になっている、あとは陸海軍の判断に任す、というわけで、やったほうがいいとか、やらんほうがいいとかはいえない。みんなが判断できるようにデータを出しただけなんだ」

――質問の答えになっていないと思うが、そのデータに問題はなかったか、と訊いているのです。

「そう、そう、問題なんだよ。海軍は一年たてば石油がなくなるので戦はできなくなるが、いまのうちなら勝てる、とほのめかすんだな。だったらいまやるのも仕方ない、とみんなが思い始めていた。そういうムードで企画院に資料を出せ、そいうわけなんだな」

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