変わるお笑いのあり方

テレビや映画、小説までいろいろな仕事をやってきた俺が感じるのは、「ウィズ・コロナ」なんて気軽に言えないということ。世界を変えてしまうような病気が存在するって緊張感があるからね。芸術は素晴らしいと言うけど、今回、何にも増して生命というものがどんなに価値があるのかってことを考えさせられた。俺が夜中に小説を書き、絵を描いてる間に亡くなってる人がいる、と考えるとやりきれなくなったものね。

俺がテレビをリモート出演に切り替えたのは、自分が罹るのはしょうがないけれど、他人に伝染してしまうのがつらいからなの。PCR検査だって、感染が濃厚に疑われて症状が進んでいないとできない。抗体や抗原検査もすぐに受けられるわけではないでしょ。それを待ってたんでは、始まらないじゃない。だったら「自分は陽性なんだ」という前提で生きていこうと考えたんです。

だけど、世の中はどうも逆で、「俺は大丈夫」というやつが多いんだよね。人間は大変な時には己の都合のいい意見に飛びつくって聞いてたけど、本当にそうだった。それも嫌になっちゃうことだったかな。

これも仕方がないと諦めてるけど、リモートってのはやりづらいね。どこに目をやればいいかわかんないしさ。客や共演者、スタッフの反応を見て演じる仕事なんで、ウケてるかどうか判断できないから困る。それにディレイ(遅れ)が生じてリアクションがズレちゃうから、演(や)ってて歯がゆいんですよ。

今回のコロナは長引くから、笑いも必然的に変化するね。漫才もテレビで見てると相方との距離は取るわ、間にアクリル板を置いておくわで大変じゃない。おまけにリモートで無観客だったり、ライブを演ったとしても客はまばらに座らせたりするでしょ。

掛け合いの面白さは漫才師の距離感によって生まれる芸。おまけにツッコミは客の反応を瞬時につかまえてやる技なわけ。だから今、漫才はいわば手足をもがれた形になってるの。そうなるともう、二人で演る芸は難しい。必然的にアメリカ形式の、一人で漫談を披露するスタンダップコメディに流れていくと思う。

アメリカのコメディ映画のスター、「ローレル&ハーディ」や「アボット&コステロ」が喜ばれたのは、禁酒法や戦争の余波で劇場の入りが減ってしまい、映画で魅せるコンビ芸以外、成り立たなくなったから。時代背景によって求められる笑いの形式も変化する。60年代後半にはレニー・ブルースって毒舌家が全米で人気だったしね。

日本で俺らが「ツービート」で漫才を演ってる時代には、トム・ハンクスやエディ・マーフィなんかがピン芸人としてライブで喋って人気を得ていたの。きっと日本もそういう流れになってくるよ。寂しいなんて言ってらんない。これも自然淘汰かもしれないし。