ともかく、あたしは龍堂を振り払い、その場から逃げました。
そして、まあ……それからは産婆として働くことにしたのです。母がかなりの金子を遺してくれていましたし、仕事そのものも順調であったので、暮らしが、どうにもならぬほど行き詰まるってことはなかったですね。おかげで、龍堂の許に帰らずに済みました。もっとも、飢えて死ぬことになったとしても、帰りはしなかったでしょう。
恩はあります。けれど、あの男の剥き出しになった本性を知って、報恩の気持ちなど砕け散りました。二度と会わず、別々の世界で生きていくのだと決心しました。
ただ、伊野屋さんとは、その後も細いながらも縁を結んでいたのです。それこそ、たくさんの恩を受けておりましたからね。龍堂の許を去ってからも、たまにですが顔を覗かせてましたね。伊野屋さんに何を話したわけでもないのですが……薄々何かを感じていたらしく、もう米沢町には来ない方がいい、あんたはあんたの新しい生き方を探るべきだと諭されました。あんたは生きなきゃならない、容易く散っては駄目なのだとも諭されました。背中を押された気がしましたよ。
女たちが最後に辿り着く、辿り着ける場を拵えよう。いつか、ではなく遠い未来ではなく、能う限り早く。
あたしの中にあった想いを伊野屋さんは酌んでくれたのです。そして、なにくれと気に掛けてくれました。龍堂が倒れたことを伝えてくれたのも、龍堂が遺した帳面を渡してくれたのも伊野屋さんです。酒に酔った龍堂が「大層貴重なものだから、ありがたく思え」と押し付けてきたんだそうですよ。それを「薬屋には無用でしかないが、あんたに、これから先、患者を抱える覚悟があるなら、役に立つかもしれない」と。
あたしと末音が米沢町を去った後も、ずっと気に掛けてくれていたようで、それをこの前、改めて知りました。
ただね、伊野屋さんが、あたしが龍堂の許から離れ独り立ちしたのを喜んでくれたのは、あたしの身体のこととか龍堂の横暴とかだけが理由ではなかったと、あたしは思っています。伊野屋さんは、光陵という男の恐ろしさを薄っすらとでしょうが、わかっていたんですよ。その残忍さも、並外れた頭の良さも、歪な性根も感じ取っていたのです。だから、暗に、あたしに逃げるよう促したんじゃないでしょうか。
龍堂ではなく光陵から逃げるように……。
あたしは今、もう少し早く伊野屋さんに会いに行くべきだったと悔いています。光陵のことがなくても、会いに行くべきでした。せめて、ちゃんと言葉が交わせるうちに会って、お礼を告げねばならなかったんですよ。幾ら悔いても取り戻せはしないのですが。
ほんとにね、重い悔いです。これが不義理の付けってやつでしょうかね。
そして、重いものがもう一つある。
お定だ。
米沢町で見つかったという女の死体。まさかとは思う。考え過ぎだと自分を宥めたくもある。けれど、不安は圧(の)し掛かり、重い。
「それで、光陵の殺しの件についてはどうなのです」
平左衛門が煙管を袂に戻す。
「喫(の)まないんですか」
「煙管、ですかな? はは、これは口淋しいときに使うだけですよ。それに手の中で回すのも、けっこう癖になっておりましてね。それだけのものです。煙草を喫むと臭いがつきますので。嫌がる女たちが、それなりにおりますから、ずっと控えております。わたしは、若いころからかなりの煙草喫みだったのですが、いざ止めようとすると意外にあっさり止められるものですな」
この男には珍しく、意味のない饒舌だった。空っぽで軽佻(けいちょう)だ。
おゑんの身体のことに、これ以上深入りはしない。そう告げているような物言いだった。平左衛門なりの気遣いなのかもしれない。
甲三郎は石像の如く、動かない。ただ頬の線に沿って、汗が一筋流れた。
「日野光陵は、本当に三人もの人間を殺ったのですか」
「三人ではないかもしれません」
平左衛門の眉がひくりと動く。
「……もしそれが本当だとすると、慣れてしまっていることになりますな、先生」
「ええ……」
人は何にでも慣れてしまう。
人を殴ることにも、殺すことにも慣れてしまうのだ。
むろん、人が人を殺す。そこには高い壁が聳えている。大半の者は、その壁を越すことなく尋常な世界に留まるのだ。ところが、中にはその壁をよじ登り、あっさり越えてしまう者もいる。数は多くないが、いる。
最初の一人のときは躊躇う。慌てふためきもする。自分の犯した罪に怯えもする。二人目はそれが和らぐ。三人目はさらに和らぐ。そして、慣れる、人を殺すことに慣れて、食事を摂るように、茶を飲むように、顔を洗うように、命を奪えるようになる。
「甲三郎」
不意に、平左衛門が呼んだ。
「へい」
「おまえは、どうだ。慣れたか?」
甲三郎が息を呑んだ。おゑんも、だ。
「尋ねるまでもないか。おまえもわしも、人を闇に葬ることに慣れている。そういう生き方をしてきたからな」
甲三郎は答えない。今度は、おゑんの視線から逃げるように、目を伏せた。
「先生のように人を生かすのではなく、消してしまう側にずっと立っている。そうだろう」
「おやまあ、惣名主、そんなに持ち上げてくださって、ありがとうございます」
おゑんはわざと朗らかに笑った。
「けどね、あたしは闇医者でござんすよ。人を生かすだけの仕事をしてきたわけじゃありません。むしろ、生より死を扱った方が多いでしょうね」
何か言いかけた平左衛門を遮るように、続ける。
「それに、甲三郎さんと光陵はまるで違います。光陵は、人を殺しながら咎められない、誰も自分の仕業と気が付かない、そのことが愉快でたまらないのです。自分が他人の生を支配している、支配できると誤解し、その愉悦に浸っているのです。何と言えばいいのか、自分が神や仏になったような心地に酔っているんでしょうかねえ」
平左衛門が大きく息を吸う。
そのとき、廊下で人の気配がした。
甲三郎が立ち上がり、そのまま廊下に出て誰かとしゃべり始めた。
「今、米沢町の死人のことを調べてた男が帰ってまいりやした」
ややあって障子戸を閉め、告げる。
「ずい分と早かったな」
「早駕籠を使うように言いつけやしたから。それに、調べてたといっても米沢町あたりを縄張りにする岡っ引から、死んだ女の様子を聞いてきただけなんで。続けて、もう少しじっくり調べるように命じておきやした」
「それで、どんな人だったんです」
前のめりになる。
やはり、お定さん……。
「身元はまだわかってねえとのこと。ただ、かなりの年寄り、老婆だったようで」
「老婆……」
「へえ、髪も真っ白で、皺だらけで、相当な年寄りだと親分は言い切ったらしいです」
相当な、年寄り。それなら、お定ではない……のだろうか。
「白髪、老婆、それって……」
膝が当たり、湯呑が転がった。
「まさか」
平左衛門が唸る。甲三郎が唇を固く結んだ。
まさか、そんな。
おゑんは震える手を握り締めた。












